料理と踊り

 母の日記を見ると、来客の多いのに驚く。年によっては毎日のようにお客が見えている。母はお客をもてなすことが好きであり、また上手でもあった。だから余計に人も来ると言う次第であった。彼女は来訪者が少ないのは淋しかったようだし、ご馳走すると気持ちがよかったらしい。時間的にまた経済的に負担が大きいにも拘わらず、それを敢えてしたのは、結局好きという他はない。忙しい忙しいと言いながら。

 実際母はお料理が上手であった。二人暮らしの台所には、様々な種類、様々の形の食器が並んでいた。それらをうまく利用して、器用に料理を作り、しかも早かった。お客の目を喜ばせ、舌鼓を打つ料理が瞬く間にできた。お客が喜べば、自分も満足していた。父の病気の関係もあって、家の畑には野菜を育てていたので、新鮮な野菜には事欠かなかった。それに木の芽、みかんの皮、みょうが、紫蘇などを配して、味を生かし、色とりどりのものを作る腕があった。私が香り高い料理を好むようになったのも、母の影響なのかもしれない。

 とりわけ漬物に至っては、母の得意中の得意であった。 ぬか味噌は何年も持ち越してよく手入れをし、よく混ぜてぬかを加え、塩を加える時期を誤らなかった。茄子の如きはその色が大事であるが、紫の美しい色を出すために、食卓に出す時間を考えて、朝の4時とか5時に起きて、茄子をぬかに入れていた。そして父が紫の色美しい茄子漬けを喜ぶのを見て母は満足するのだった。

 大根のおき漬けには気を使って、一斗樽、二斗樽と漬け込んでゆくことは、毎年の冬の行事の一つであった。母の日記にそのことが記されている。白菜漬けの塩加減も、またうまいものであった。

 父はあまり母の料理を褒めなかったが、実は三度三度の食事に、どんなご馳走がでるか楽しみにしていたらしい。「毎度美味しい漬物が食べられたのに、今はそれが叶わなくなった」と、母が亡くなったあとにこぼしていた。妻は良い意味でも悪い意味でも夫をこんな風にしてしまうのかと感ずるのである。

 母が大切にしていたぬか味噌を妹は一握り東京に持ち帰った。そして私にもその一部を分けてくれた。姉妹でそれぞれのぬか味噌を作ってゆくことだろうが、その中には母の心が伝わっているように思う。私も季節の野菜をつけるが、ぬか味噌に手を入れる毎に母を偲び、ついその中に涙が落ちそうになることがある。そして美味しくできた時は、これを一口母に味わってもらったら「おお、すみ子、ここまで出来るようになったかね」と喜んでもらえると思うが、その母は今はいない。

 台所を持つ女の幸福というものが、母から娘にと伝わって来るように思う。これも一つの愛情と言えるのではないだろうか。

 母は70歳を越して時々映画に行ったり、芝居見物をしたことが日記に載っている。そういったものが好きであったのは、里方の血を引いているからかもしれない。母方の祖父母が浄瑠璃やお芝居が好きで、よく田舎に役者を迎えたという話を聞いたことがある。

 こうした母は、また踊りが好きであった。むろんダンスではなく、日本舞踊的なものである。父が暫く公民館館長をやっていて、いろいろな催しものに母も引き出される機会が多かったようである。いつ、どうして始めたかは知らないが、若い者に負けず熱心に稽古をしていた。家でも孫たちが帰って来ると、一緒に輪になって、手ぬぐいを持って「ちゃっきり節」など踊っていた。母が踊っている写真は沢山あるが、私はその本格的な舞台を見る機会は遂になかった。手足が痺れ出してからは踊りを諦めるほかなかったであろうから、その期間はあまり長いものではなかったようだ。

 年とともに稽古に力を入れたのが謡曲である。と言っても座る余裕のないこの人は、台所でも、どこでも稽古をしていた。はじめは何を叫んでいるのかと思うほどの大きな声を出していたが、私が何年かに一度という里帰りの折には、声も円やかになり、落ち着いて来る様子をみせてくれた。「武生島」とか「長生殿」などはよく耳にしたものである。週に一度の会は、晩年の母にとってこよなく楽しいものであったに違いない。

 謡曲で忘れることのできないのは、私の三男の結婚式の披露宴で謡ってくれたことである。淡い小豆色の小紋を着た母のその日の姿が、高く響いてくる朗々の響きとともに、私には忘れられない印象であった。これが私の知る母の最後の晴れ姿である。

 母はお客が好きで、踊りが好きで、賑やかなことを愛した。あるいは生来の楽天主義者であったのかもしれない。
                       
(もう一章「俳句」があるが、これはまた別の機会に、すみ子さんの俳句とともに紹介したい。)

   (おわり)

❤美喜子のつぶやき
すみ子おばちゃん、
お体が悪かったのによくこれだけのものを纏められましたね。脱帽です!すみ子さんがどれだけ肉親の母親を愛し、慕っていたか、切ないほどにわかります。
人と花をこよなく愛し、命を燃え尽くして旅立った粧さん。私の脳裏に焼きついている姿とすみ子さんが残した文章を重ね合わせ、「私のおばあちゃん」像が完成しました。
ありがとう、すみ子さん! 



粧さんが使っていた食器。ティーカップはハイカラで、粧さんは当時まだ珍しかったコーヒーを入れて孫たちとおしゃべりするのを楽しみにしていた。

おばあちゃん、インドのサモサというおやつを作りました。召し上がってみてください。
★サモサリンク



リンク:
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「いのち」のつながり