【昭和のお母さん】

 この一枚は母の写真の中で一番好きなもので、神棚に飾ってあります。「昭和のお母さん」というキャプションをつけました。

 母は昭和2年に生まれ、昭和の61年間と平成の29年余りを生き抜けました。もう少しで90歳に届く、89歳5か月の人生でした。3月23日は5回目の命日です。

 晩年の母について「母の旅立ち」に書きました。
「妻として、3人の子供の母親として、立派に生きた母であったが、80歳を過ぎた頃から徐々に崩れていき、交代で介護をした娘と息子は少なからず辛い思いもした」と。

 辛さや不条理に苦しみ、悩んだこともありました。そんな時、両親のこともよく知っている、ある友人が次のような言葉をかけてくれました。

 「貴方、お母さんに感謝しなければいけないわよ。お母さんのお世話ができるということはどれほど幸せなことでしょう。人間の老いや死というものがどんなことなのか、お母さんは愛する娘にすべてを見せてくれているのよ―美しいことばかりでなく、醜いことも悲しいこともすべてを―」

 母の年齢に近づいている今、改めて彼女の言葉を噛みしめています。

 母とは縁の深い親子でしたが、今特に思い出すのは「立派な」(と言われた)母よりも、「駄々っ子」となった晩年の母です。当時は憎らしく思ったりもしましたが、今はたまらなく愛おしく思います。

 「おかあさん、喧嘩も沢山したけれど、一緒に過ごす時間が長くてよかったですね」

 母が旅立って、早5年の歳月が経ちました。今年も間もなく庭の桜の蕾が弾けることでしょう。

 昨年縁あって、ITの仕事をしている若者に出会い、ホームページを立ち上げてもらいました。過去に書いたものを一通り掲載した後、母のレシピや家族の思い出を投稿するようになり、最近は母と対話をしているような感じで日々暮らしています。母の世界に近づいているのかもしれませんね。

 母がグループホームに入居した時、大切に抱えて行った、いくつかのレシピファイルには表紙やあちこちに乱れた字で落書きが残っています。

 ― せめて整理を終えて、(このファイルを)みきこに渡したい。
 ― そうだ。伴久子は強い女だったのだ! 伴正一の妻だった・・・。  
 ― さくらがふくらんだ・・・。
 ― お先にゆきます。さようなら。いろいろありがとう、ありがとう。

 母のレシピ集を完成させることが、73歳になろうとしている今の私の「生き甲斐」のようになっています。お母さん、どうか私を見守ってください! 
                      

(2022年3月23日母の五周忌に寄せて)


リンク: 母の旅立ち https://ban-mikiko.com/1841.html



伴正一に嫁ぐ前の母(手前左)―両親や姉と

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(この世をばどりゃお暇に線香の煙とともにはい(灰)左様なら)