2017年3月23日、母は89歳でこの世を旅立った。その年は寒い春で桜はまだ咲いていなかったが、今年の命日はちょうど庭の老木が満開で、桜の季節に人生の幕を閉じた母は本望だったに違いないと、西行の句を口ずさんで母を偲んだ。

 願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ 
(今年の旧暦2月の満月は3月29日だった)

 妻として、3人の子供の母親として、立派に生きた母であったが、80歳を過ぎた頃から徐々に崩れていき、交代で介護をした娘と息子は少なからず辛い思いもした。2014年夏、母は認知症のグループホームに入居。 2016年秋からは誤嚥性肺炎で入退院を繰り返すようになり、2017年1月末、遂に口から食べ物を取ることが出来なくなった。私たちは母の寿命が残り少なくなったことを悟った。医療による延命は選ばなかった。

 寒さも和らぎ、自宅での看護の準備も整って、3月14日に母は退院することになった。お天気のよい穏やかな早春の日だった。移動ベッドで車に運ばれる母の頬に顔を寄せ「マミ―、お待ちかねでしたね。お家に帰りますよ!」と呼びかけると、母の口がわずかに開き、「ハッピー・・・」という声がかすかに聞こえた。

 それから10日間、料理好きだった母は、常々「終の棲家」だと言っていた自宅のキッチンで、主治医や看護師の皆さんにお世話になりながら、この世で最後の時間を過ごした。

 3月22日、とうとう主治医からの宣告があった。 一緒に母の世話をしていた弟武澄はすぐに東京の息子たちに連絡を入れ、翌朝までに帰郷した孫やひ孫たちを含め、家族11人全員が母のまわりに集合した。

 23日の昼過ぎ、最後に駆けつけた甥の友衛と私は急に思い立ってレモンパイを焼くことにした。母のかすかな息遣いを背後に感じながら、二人で母のレシピを読み上げて、粉を計ってふるい、バターや卵と混ぜてパイの生地を作った。

 レモンパイには母の人生の物語がある。

 27歳の時、外交官の夫に付き添って初めての海外生活を経験したサンフランシスコで、日系アメリカ人に教わったレシピだが、その後も工夫を重ねて、自らを「パイ職人」と称するほどになっていた。50年以上、ざっと数えて1000個以上は焼いてきたと自慢にしていた。

 私たち子供は5,6歳の頃から食べて続けているレモンパイだが、実は亡き父の好物の一つでもあった。母は父の様子を次のように記している。

「自分はペロッとお先に食べた後、来客が話しに夢中になってなかなか口をつけないのを見て、『〇〇さん。食べてみて下さいよ。結構イケますから』と恥ずかしそうな顔をして、お客様に勧めていた表情が懐かしく思い出される。夫はとてもそんなことを言う人ではなかったが、余程我が家のパイには自信があったのだろう。そしてそれは間接的に私への最高の賛辞でもあったように思う」と。

 次男の嫁の佳子さんが、息子幸衛を追うようにして亡くなる前「お母様、これからもレモンパイを友衛に食べさせてやってくださいね。レシピも教えてやってください。私たち家族、大好きでした」と言ったそうだ。遺言とも言えるその言葉を母は大切にしていた。

 レモンパイは母の「生きた証」であり、生涯で一番大切なものだったのではないだろうか。

 ふと振り向くと、母の息が聞こえない! 私たちが目を離した束の間に、母はもうこの世にいなくなっていた。 

 レモンパイを作る音や匂い・・・、思い出がシャボン玉のように浮かんでは消える中で、母は、The time has come ・・・と「生命(いのち)」を天に委ねたのだった。

 平成29年3月23日午後1時30分、ゆずり葉のように次世代に「いのち」を託して、母は静かに逝った。

 その夜、私たちは焼き上がったばかりの温かくて、冷たい、世界に一つだけの「マミーのレモンパイ」を霊前に供えて、母を見送った。