芒種




 5月26日午前、京都大学アジア地域研究研究所主催でマハティール元マレーシア首相の特別講演会が稲盛財団記念館で開催された。テーマは「混迷の時代におけるアジアと世界の展望」。私はこの講演会に出席するために京都にやってきたのだった。

 マハティール・モハマド氏は私が人生で最もインパクトを受けた方の一人である。1990年代、当時国際交流基金の駐在員としてマレーシアに勤務していた私は、マハティール首相のリーダーシップの下、目覚ましく発展するマレーシアの前向きで明るい社会に魅せられて、退職して再度マレーシアに渡り、通算10年クアラルンプールで暮らすことになる。多民族国家マレーシアの風景を綴ったホームページのコラムは帰国時に1冊の本『マレーシア凛凛』にまとめられ出版された。人生いろいろあったが、振り返ってみると、マレーシアは私の人生において最大のテーマだったように思う。今回はそのマレーシアに句読点を打つ旅となった。

 99歳の同氏(今年7月10日に100歳になられる)は1歳年下のシティ・ハスマ夫人と共に来日されていた(来日は100回以上)。杖もつかず、約30分壇上で立って話をされ、その後坐って質疑応答に応じられた。(このような言い方は失礼かもしれないが)声はしっかりとされ、お話も明快でわかりやすく、その姿は十数年前に日経新聞主催の「アジアの未来」シンポジウムでお見受けした時とあまり変わらなかった。波乱万丈の人生を歩んでこられた同氏の心身の強靭さには驚くばかりだった。

 その日は不思議なことに父の命日にあたり、父を背中に感じながら過ごした。マレーシアにいたころ、一時帰国の度に私はマレーシアの発展ぶりやマハティール首相のリーダーシップについて熱く報告していた。父はアジアの発展を大変喜び、アジアの歴史や世界のことについて親子の会話が弾んだことだった。残念ながら、父の旅立ちの前に『マレーシア凛凛』の出版を報告できなかったが、天国で「ようやったのう」と認めてくれていると信じている。

 ・・・こうして、歩んできた人生の扉が一つずつ閉じられていく・・・。「なんのために 生まれて、なにをして 生きてきたのか」アンパンマン・マーチを過去形にして口ずさみ、夢かうつつかー遠く過ぎ去った日々の中を彷徨いながら帰路についた。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
特別講演の要旨
1.世界は今、三つの問題に直面している。①人口増加 ②大災害をもたらす気候変動 ③米中をはじめとする大国間の緊張・対立。
2.欧米諸国が世界を支配していた帝国主義の時代は終わり、アジアが急速に発展している。かつてはアジアで日本がNo1だったが、今は中国である。
3.アジアは安定しているが、米中が対立し、各国がどちらにつくかを迫られている。
4.世界のあちこちで紛争・戦争が起きていて、偶発的に核戦争が起こらないとも限らない。本来は国連が戦争防止に役割を果たすべきだが、安全保障理事会で5か国の拒否権が存在するため、構造的に民主的な決定ができない。例えば、パレスチナ自治区ガザ地区でジェノサイドに歯止めがかからないにもかかわらず、米国のイスラエル支持で制止できない。
5.国連を改革し、拒否権が存在しない民主的な国際組織に変えていく必要がある。国連総会での多数派の決定に力を持たせるよう、日本も貢献できるはずだ。

講演の後、フロワーから、マレーシアの首相としてのレガシーは? ITについて、移民の流入についてなどの質問があった。日本には恥(Shame)の文化がある。戦争は犯罪(Crime)であり、阻止しなければならない。日本の平和憲法は素晴らしい、と述べていたのが印象的だった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




個別の記念撮影にも応じて下さった

拙著『マレーシア凛凛』(2002年)をお渡しする


伴さんが写っている写真を見たよ、とマレーシアの友人が送ってくれた1枚



リンク:

☘ 「平和なマレーシア」という愛唱歌を持つ国家 
☘ マレーシア・ボレ!90年代のキーワード 
☘ 祝 マレーシア独立42周年 
☘ 悲壮な覚悟で1年を乗り切ったマハティール首相 

☘ 東日本大震災―マハティール氏からの手紙 
☘ 『マレーシア凛凛』の書評/紹介文 

☘ 父への手紙(1)