ペナン島の北西にランカウィという島がある。近年、マレーシア政府が観光化に力を入れている場所で、旅行者ばかりでなく、セミナー等国際的な催し物の参加者など、多くの外国人も訪れるリゾート地である。

 8月12日の真夜中近く、3000人以上の人々が見守る中、このランカウィ島アワナ・ポルト・マライに”JALUR GEMILANG”と大きく書かれた一隻のヨットが静かに帰還した。”JALUR GEMILANG”とは、2年前の独立記念日に、マレーシアの国旗に付けられた名で、「輝かしい縞模様」という意味である。

 長髪の真っ赤に日焼けした一人の男が、七つの海を征服して190日ぶりに家族が待つ祖国の地を踏んだ。マレーシア人で初めてヨット単独世界一周航海の快挙を成し遂げた英雄の名はアズハー・マンソール。

 待ち受けたマハティール首相と固く抱き合ったアズハーさん(41)は、椰子の実からストローでふるさとの乳を吸い、乾き切った体と心を潤した。

 その夜、マレーシア・ボレ!という歓声が多くのマレーシア人の心の中でこだました。翌日のニュー・ストレーツ・タイムズには「マレーシア・ボレ精神を鼓舞するアズハーの成功」と題する社説が載った。

 マレーシア・ボレ!短い言葉であるが、マレーシアン・スピリットをこれほど絶妙に表わした言葉はない。ボレ(boleh)とは英語で”can”、中国語で”能”、つまりマレーシアは「やれる」という意味である。いや、マレーシア”だって”できる!と訳した方がいいかもしれない。

 四十数年前までは”orang putih”(白人)の植民地だったけれど、我々有色人種だって、ムスレムだって、頑張れば、白人のように、そして先進国のようにやれるんだ!という心意気を示している。

 事を成す前であれば「ガンバレ!」という励ましとなり、事を成し遂げた後であれば「やったあ!」という喜びの声となる。しかし、日本の「ガンバリマス」とは少し違っていて、それほど悲壮感はない。あくまでも、マレーシア的大らかさ、のん気さでのマレーシア・ボレ!であり、愛すべき言葉である。

 政治家、スポーツ選手、ジャーナリスト、企業家、タレント等々、みんながこの言葉を使う。まるで国家スローガンのようなので、”ルック・イースト・ポリシー”、”ビジョン2020”を打ち出したマハティール首相の発明かと思いきや、それはネッスル社のミロという飲料水の広告から始まったという。1992年のシーゲーム(東南アジア競技大会)でマレーシア・チームを激励するために考え出されたのだそうだ。

 90年代のマレーシアはこの言葉とともに歩んできた。国産車プロトン(1985)やカンチル(1995)、ビジョン2020(2020年構想、1991)、世界一高いツィン・タワー(1997)、エベレスト登頂成功(1997)、クアラルンプール市内の高架線鉄道の建設、新国際空港(1998)、通貨・経済危機との格闘(1997、1998)、資本規制導入への賭け(1998年9月)、英連邦競技大会(1998)、APEC非公式首脳会議(1998)など。

 そして、今年に入ってからは、新行政都市プトラ・ジャヤへの首相府移転(6月)、MSC(マルチ・スーパー・コリドー、マレーシア版シリコンバレー)の中核都市サイバー・ジャヤの公式開設(7月)。

 もちろん「挙国一致」ではない。特に1997年、98年の通貨・経済危機、アンワル前副首相兼蔵相解任をめぐる政治的激震の後は、マレーシア・ボレの言葉に元気がなかった。何でも一番を目指すのは身のほど知らずだ、アズハーの航海のために費やされたお金は無駄だ、メガ・プロジェクトばかりに力を入れるマハティール首相は自分の力を誇示するためにしたい放題のことをしている、など、この言葉に無邪気に乗れない人もいることは確かだ。

 しかし、マレーシア社会を遠景で眺めた時、マレーシア・ボレ!の合言葉が再び息を吹き返してきたような気がする。

 26日の中央銀行の発表によれば、今年第2四半期のGDP成長率は予想をはるかに上回り、4.1%を記録したという。これに対し、マハティール首相は「第3、第4四半期に何が起こるかわからない、楽観し過ぎてはいけない」と、いつになく慎重なコメントをし、国民を戒めた。

 明日(8月31日)、マレーシアは42回目の独立記念日を迎える。

参考: このコラムを書いた数ヶ月後、ドラムがパンチを効かせた”Malaysia boleh!”という愛国歌がテレビで流れるようになった。