芒種(卯月29日)


初夏の柑橘、小夏。可愛らしさと爽やかな香りから”小夏ちゃん”と県外の方にも愛されています。


 十年以上前に書いた原稿(未発表)が出てきたので、長くなるが記録しておきたい。
                       

   2012年8月18日

 父が77歳で亡くなって11年余りになる。娘はいつしか60歳を超え、来春は退職を迎えることになった。今、亡き父の声を聴きながら、集大成の気持ちで仕事に取り組んでいる。

 お父様、覚えておられますか。20年前、私が国際交流基金の駐在員としてクアラルンプールに勤務していた時、マレーシアを訪ねて下さいましたね。若き日、海軍主計大尉だった父上にとって、胸に深く刻まれた地、コタバル、マラッカ、シンガポールを一緒に歩きました。「アジアの共栄を願って戦った」父上がこの地域の発展ぶりに深く感動し、満足されていた姿が今も瞼に残っています。

 マレーシア北東の町コタバルは1941年12月8日に日本軍が英国の無敵艦隊プリンス・オブ・ウエールズを撃沈した地。シンガポールは大英帝国の牙城でしたが、英国が日本に無条件降伏をして世界史の大転換の舞台となった地であり(高知県出身の陸軍大将山下奉文が敵将パーシバルに「Yes or No!」と迫ったという逸話がある)、父上自身も何度か寄港し、懐かしい記憶が残る町。そして、歴史の町マラッカでは「大発見」をしましたね。亡き父に捧げた拙著『マレーシア凛凛』より引用します。

 マラッカ海峡が一望できるセント・ポールの丘には1521年にポルトガル人によって建てられた教会が廃墟となって残っているが、その前には日本にも布教に来たフランシスコ・ザビエルの像が立っている。澄み切った青空と灼熱の太陽の中で、その地に佇むと、この500年の世界史の栄枯盛衰が偲ばれる。サンチアゴ砦をくぐって丘を降りると、緑の広場が広がり、その前に国立公文書館が管轄する「独立宣言記念館」がある。そこで「発見」した、日本占領(1941-1945)に関する説明文の抜粋(筆者による仮訳)を紹介しよう。

 1942年2月15日、パーシバル将軍に率いられたイギリス軍は正式に日本に降伏し、ここにアジアの国によるマラヤの新たな植民地化が始まりました。日本の占領によってマラヤは経済的、社会的に大打撃を受けましたが、政治的にはマラヤの人々にとって「覚醒」とも言えるものでした。マラヤの人々はイギリスが「無敵」でないことに気づき始めたのです。言い換えれば、日本の成功が西洋列強からの独立の精神を再び燃え上がらせたということです。(中略)アジア人たちは自らに対する自信を取り戻し、西洋人に対する崇拝の念を失ったのです。(後略)

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 日本の占領は1945年の8月に終わり、再び戻ってきた英国からマラヤが独立したのは1957年のことでした。1963年にはボルネオ島のサバ、サラワクも加わり、マレーシアという国が生まれました。英国の植民地政策の結果として形成された複雑な多民族国家でありながら、1981年より22年間首相を務めたマハティール氏の強力なリーダーシップにより、マレーシアは見事な発展を遂げ、VISION 2020(2020年までに先進国の仲間入りをするという国家目標)も夢でなくなりました。

 マハティール元首相が採った重要な政策の一つに「ルックイースト政策」があります。実は背景に青年時代の強烈な衝撃があることを知る人は多くないかもしれません。1941年12月、当時15歳だったマハティールはアロースターで英国の軍事拠点シンガポール攻略を目指してマレー半島に上陸した日本軍の姿を目の当たりにしているのです。同氏は『私の履歴書』(日経新聞)の中で「日本の侵略は英国の存在を無意識に前提にしていた私の世界観、価値観をひっくり返し、独立への意識を呼び起こしたのである」と語っています。ルックイースト政策はこれまだ30年間続いており、1万4千人の留学生や研修生が日本で学んでいます。

 さて、父が亡くなった翌年・・・(つづく)
 



日本軍が上陸したコタバルの海岸に佇む

マラッカ セントポールの丘に立つザビエル像

マレーシア独立宣言記念館の前で

日本占領に関する説明文に見入る父と娘(父にとっては感無量だっただろう)

リンク:
☘ マラッカで出会った日本占領に関する資料
☘ マレーシアで感じる日本へのまなざし