父への手紙(2)(A letter to my father-2)
♪ 卯の花の匂う垣根に ほととぎす早も来鳴きて 忍音もらす夏は来ぬ ♪
さて、父上が亡くなった翌年、私は10年滞在したマレーシアを引き揚げ、今、故郷高知の高知工科大学で国際教育交流の仕事に携わっています。特に中国東北部(旧満州)やタイなどとの交流が多いのですが、最近は韓国や台湾などへもよく出かけるようになりました。アジアの国々を出張で訪れる度にその発展ぶり、特に町の「活気」や「明るさ」に驚嘆させられます。ある意味でマレーシアでの感動が続いていると言えます。
今年5月に東京で開催された、日経新聞主催の国際交流会議「第18回アジアの未来」にはもと元首や閣僚級の人々が多数参加していましたが、「世界の重心は欧米からアジアへと大きくシフトしている」という発言が繰り返されました。そして、それはここ数十年のスパンで起きていることではなく、数百年に一度の「地殻変動」ともいうべき歴史の大きなうねりだというのです。父上が願ったアジアの興隆が現実のものとなったのです。父上の青春時代の壮絶な体験に想いを馳せる時、まずはこのことをご報告せずにはいられません。
更に驚くべきことは、これらの地域の発展に日本や日本人が深く関わってきたことです。出張で訪れる各地で日本人の軌跡に出会うという得難い体験が続いています。
中国黒竜江省ハルビン市にあるハルビン工業大学(国立)は中国の大学のトップ10に入る大学ですが、2010年に創立90周年を記念して完成した校史館には、1932年から45年までの日本時代も「抹殺」されることなく、「歴史」として、記録、展示されていたのは驚きでした。
韓国ジンジュ市にある国立慶南科技大学は昨年創立101年を迎えましたが、記念式典では日本の植民地時代に20年間、前身である公立農業学校の校長を務めた今村忠夫氏の令息昌耕氏(94歳)の祝辞が披露されまた。韓国の教え子たちによって建立された頌徳碑が今村氏実家跡の土佐市民病院の敷地にあることも同校との交流を通じて遅まきながら知りました。
最近、最も驚いたのは台湾の台南市にある国立成功大学を訪問した時のことです。校史館に「成功の基礎」と看板の掛かった一室が設けられ、日本植民地時代の台湾総督府台南高等工業学校(成功大学の前身)の歴史(1931―1945)が「台湾工業教育の重要な基礎を築いた」として展示されており、当時の日本人教員の写真までがビデオで流されていたのです。キャンパスには1923年に当時皇太子だった昭和天皇が植樹されたガジュマルの大木が青々と茂っていました。
戦前、戦中こんなにも多くの日本人がアジア各地で活躍していたのか、そしてその地域の人々と深い交流をしてきたのかと思うと、今までそのことを知らなかったことを日本人として恥じずにはいられません。日本の国際化が叫ばれていますが、先人たちは遥かに濃密でダイナミックな国際交流を実践していたのです。
マレーシアで父と、この数百年の歴史を振り返った娘は、今、アジアの歴史を百年の単位で見つめ直していることを亡き父上にご報告します。
ハルビン工業大学博物館の絵葉書
ジンジュ大学の桜が満開だった。右は高知工科大学卒業生ジョンさん
昭和天皇が皇太子時代に植樹されたガジュマルの木は大木となり、今も大学のシンボルになっている
リンク:
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