春分(如月11日)

                                                               

🌸 東京八王子の大学セミナーハウスにて


 母の7回目の命日がやってくる。母が大切にしていた「料理」は遅蒔きながら娘が受け継ぎ、これまで41のレシピを公開した。しかし、母が大切にしていたもう一つのもの、「着物」については、娘はまだこの世界に踏み入れていない。いつの日か着物を着て母を偲ぶことができるだろうか。

 母の着物に対する熱い思いが一つのエッセイに残っている。少し長いが、供養の気持ちを込めて、掲載しておきたい。

 「着物は『ものを大切にする』という文化を包含している」と母は言い、一枚の紬を「使い切った」様子を子細に書いている。

 「・・・切る」という言葉に私も惹かれる。食べ切る、使い切る、やり切る、思い切る、そして、生き切る・・・。

 では、一枚の紬の物語にお付き合いください。



❤ 一枚の紬   1993.12.8 (平成5年)    伴久子
 年を重ねるほどに着物に切り替えておいてよかったと思っている。おそらく私は今、着物を通 して世の中を見ているのではないだろうか。数年前、記念になる数着を残して、あとの洋服はすべて処分した。靴は全部捨てた。洋装というものに完全に別れを告げたのである。

 今から20年近く前になるだろうか。私が50才になる前だった。白い襟元と真っ白の足元に惹きつけられたのは・・・。何と清潔で清々しい衣装なのだろうか。そして一度藍色の紬を着てみたいとしきりに思い始めた。

 夫の職業柄、外国で生活することの多かった私には紬というものは無用の長物で、着物を新調するなら柔らかいものを作るのが常だった。当時私は一枚の紬も持っていなかった。それはとても贅沢なことだった。

 東京信濃町の公務員住宅に住んでいた頃だった。長女は大学生、長男は高校生、末の子は中学生で、まだまだ子供のことで手一杯の時だった。ふと何かの用で飯田橋を通り過ぎた時、ある呉服屋のウインド-に掛かっていた一枚の紬が目に止まった。

 ビジネス街のこんなところにどうして呉服屋があるのだろうかと不思議に思ったのだが、後で「神楽坂」という花町が近くにあることを聞き、合点した。私はその紬に吸い込まれるような思いで、暫く釘付けになった。「一体どの位するものなのだろうか」紬のようなものを手にしたことのない私には見当もつかない。生憎、正札は裏を向いていた。

 私は恐る恐る店の中に入って行った。随分勇気がいった。その値段はとても箸にも棒にもかかるものではなかった。私はすごすごとその場を立ち去った。しかし、その後もその紬が気になって仕方ない。「売れているといいのになあ」と思いながら、また訪れてみた。まだそのまま掛かっているではないか! 恐らくそれから2、3回は見に行ったように記憶している。どうしても忘れられないのだ。

 夫に恐る恐るありのままを話してみた。自分自身は大変質素に生活している人だが、即座に「そんなに気に入ったのなら買ったらどうかね」と言ってくれた。私は天にも昇る思いだった。

 この時から20年、この藍染の紬は私と共に生きて来た。結城紬のような深い藍の色ではなく、比較的明るい藍の色の地にグレイの織り縞が縦に通っており、大変すっきりしたものだ。この20年本当によく着た。これ程私を楽しませてくれた着物もないだろう。それだけにこのところ傷みがひどくなってきた。裾が切れると上げてゆくものだから丈も短くなった。脇縫いのところは向こうが透けて見えるくらいになった。着物も本望だろう。でもまだまだ生命は残っている。 
    
 来春はこれを解き、暖かい日に洗い張りをし、よい所だけとって上着にでもしようと楽しんでいる。また甦ってくるのだ。着物というものはこうして最後の最後まで使い切ることができる。

 繭を育て、糸をくり、それを染めて、反物に織り上げてゆく、
一反の反物が出来上がるまでどれだけの時間がかかり、どれだけの多くの人の手を経ていることだろう。そんなことを思いながら見ていると、とても無造作に扱うことはできない。

 巾39センチ、長さ12メートルに織り上がった一反の反物は全く切り刻まれることなく余分のものは縫代となり、そっくりそのまま一枚の着物に縫い合わされて、身に纏うことになるのだ。そして少々の体型の違いはおはしよりや打ち合わせで加減できる。考えてゆくと着物というのは「ものを大切にする」とか、「適応性」など古来日本人が育てきた精神文化をすべて包含しているように思えてならない。そんな思いが私に着物というものにより愛着を寄せてくれているのかもしれない。



❤ あとがき     2004.6.27
 このエッセイを書いたのは今から11年前、原稿用紙に書いたままにしてあった。このところそろそろ私の「人生の店じまい」もしなくては、といくつかの作文をワープロに打ち込むことを始めている。たどたどしい指の動きなので、時間がかかる。数日かかってやっとこの「一枚の紬」を打ち終えた。

 読み返してゆくと、いろいろなことが思い出される。当時中学生だった次男の幸衛は5年前、南アフリカで突然この世を去った。この紬を気持ちよく買ってくれた主人も亡くなって3年になる。今、やっと立ち直ったところである。
 
 この藍の紬は30年もの間ずっと私に寄り添ってきてくれた。私が子供と共に生き生きしていた時代も、悲しみに打ちひしがれていた時代も、私のことをすべて知っているのだ。

 去年の冬、よれよれになった紬は何とか上衣に仕立て替えられた。そして、主人のネクタイがその飾り紐になっている。



 ❤ その後この紬はどうなったのでしょう     2005.4.18
 破れたところは繕い、洗い張りをし、暫く棚に眠っていた。そしてコートのような上着に縫い替えられた。防寒用、雨用、割烹着代わり、ガウンにもといろいろな形で活躍してくれた。

 一番重宝したのは、来客の時、割烹着だったら脱がなくてならないのに、そのまま玄関に出られるということだ。着古して短くなった着物を思い切り丈を切って、再利用することをお勧めする。私はこのような上着を数枚作っている。下に着る着物の色に合わせて、羽織ることにしている。これもまた楽しいことだ。

 こうして数年楽しんだ。しかし、とうとう別れの日がやってきた。花の季節も終わり、新緑が萌え出ている4月の終わり、今日こそと決め、一日中その上着を着て、充分に別れを惜しんだ。「30年あまりよく奉公してくれましたね」と色褪せ、擦り切れた古着を何遍となく撫でた。 この一枚の紬もさぞかし本望だっただろう。ありがとう、そして、さようなら。 (了)  



母は着物、娘はバジュクロン。バンコクにて

東洋の「衣」には共通点がある。@高知工科大学


❤ 母の着物姿は「十人十色の着物がたり』(主婦と生活社、2004)に「伴久子さんの思い出の着物」と題して、また『家庭画報 きものサロン』2006-07冬号の「特集冬のきもの暮らし」に掲載されている。