5月26日は父の命日だった。  

 大正13年1月1日に生まれ、平成13年(2001年)5月26日に77歳で亡くなった。生きていたら98歳である。

 思い出すのは父との「最後」の別れである。亡くなる半年以上前のことである。一時帰国してマレーシアに戻る時、闘病中の父はいつになく私を丁重に見送ってくれた。玄関で長い長い握手を交わし、父の手のぬくもりが私の体にじわっと伝わってきた感触を今も覚えている。通りに出て振り返ると、着物姿の父が縁側に回っていつまでも手を振ってくれていた。

 さ・よ・う・な・ら ―私は力を振り絞って心の中で呟いた。その後、何度か父に会っているが、その時が実質の「今生の別れ」であったように思う。あれは父と娘の別れの儀式だったのだ。

 47歳で無謀にも国際交流基金を辞め、再度マレーシアに渡った娘を父は何も言わずに、温かく見守ってくれた。一時帰国の折には、東京の狭いマンションにも泊めてくれ、夜遅くまでマレーシアのこと、国際情勢、東南アジアや日本の歴史などについて語り合った。

 父は私がマレーシア国民大学で日本語講師をしていたところまでしか知らない。父にマレ―シア滞在卒業論文を「提出」しなければならないと思っていたが、『マレーシア凛凛』を手に取って見てもらうことはできなかった。

 3月の母の命日に母のことを書いたので、父のことも書かなければなるまい。

 父のことは「Mikiko Talks on Malaysia」に何回か書いている。「海ゆかば」や「父の随想」など・・・。男である父について、娘が書くのは難しい。家の納戸には父の思索メモや執筆したもの、残した書類や書籍が沢山残っている。いつか目を通して整理しなければと思いつつ、なかなか手がつかずにいる。

 今年は「写真で振り返る父の一生」ということで許していただこう。

 タイトルの「平成の侍」は父を「兄さん」と慕ってくれた植野克彦さんの文章から取った。



① 両親、姉、祖母に囲まれて

② 少年の頃から剣道に励む



③ 海軍経理学校時代

④ 外務省時代




⑤ 日中平和友好条約締結の仕事に携わる(左から2人目)



⑥ 何度か国政選挙に挑戦



⑦ 娘の勤務地マレーシアを訪ねて初めて「バカンス」を経験したそうだ

⑧ マラッカの独立記念館で日本占領時代の展示解説に父娘で驚く



⑨ 90年代に息子が送ってくれたパソコンに夫婦で挑戦。蟹のような手に注目!

⑩ 亡くなる2か月前、自宅で家族との時間を惜しむ



⑪ 「おまんらあも、しっかりやりよ」と闘病の身でも檄を飛ばす。最後まで竹刀を大切にしていた。

⑫ 家のお宝の刀を末孫に授与。「あとを頼んだぞ」


リンク:
和服の力  https://ban-mikiko.com/157.html
青葉茂れる桜井の・・・  https://ban-mikiko.com/157.html

海ゆかば(1) https://ban-mikiko.com/154.html
海ゆかば(2) https://ban-mikiko.com/158.html

父の随想から(1) 自分一人の納得  https://ban-mikiko.com/165.html
父の随想から(2)一つの幸福論   https://ban-mikiko.com/166.html
父の随想から(3)青年海外協力隊OBに寄せる  https://ban-mikiko.com/168.html
父の随想から(4)政治を見放したら―昭和史の教えるもの  https://ban-mikiko.com/161.html

伴正一遺稿集 https://www.yorozubp.com/shoichi/