今回もまた、それは「突然」にやってきた。この日が遠からぬ時にやってくることはわかっていたはずなのに、覚悟はしていたはずなのに、いよいよ潮が満ちてその日が近づいていた時、私は愚かにもそのことに気付かなかった。
 5月中旬、私は再び父の見舞いのために、と言うよりも父の人生の「店じまい」の手助けをするために、帰省していた。1カ月前に比べ、父の体の機能は下降線を辿っているように思えたが、私は万難を排して帰れたことで安心し、「時間はまだまだある」と信じ切っていた。そして、不覚にも風邪など引いてしまい、私との共同作業をてぐすねひいて待っていた父に「お預け」をさせてしまったのである。

 神様はなぜあの時、「あと1週間しかありませんよ」「あと3日ですよ」と教えてくださらなかったのだろう。ああ、それがわかっていたら、それが見えていたら、私は風邪など引かずに睡眠時間も惜しんで、父との時間を慈しんだであろうに。人間はなぜこんな大事な事を前もって知ることができないのだろう。

 平成13年5月26日、午後5時45分。父はとうとう帰らぬ人となった。妻や子、嫁や孫たちが見守る中、夕焼けに迎えられて西方浄土へと旅立ったのである。24日に容態が急変し、病院に運ばれて、2日後のことだった。病名は直腸癌の骨盤転移。約1年、病いと闘った末の静かな死だった。

 息を引き取る1時間前、主治医の西本先生が私たち姉弟を廊下に呼び、そっと教えてくれた。  「(とうとう)血圧が下がり始めましたが、もうこれ以上の処置はいたしません。 … 意識がないように見えても、患者さんには聞こえていると言われています。どうか最後まで皆さんで耳元に語りかけて上げて下さい」

 酸素マスクをした父にはもう表情はなかった。ベッド横の機械の画面に写し出された波形と、時折聞こえるピーという無機質の音だけが父の体の変化を伝えていた。

 前夜、父親と共に寝ずの看病をした高校生の孫、正海は必死で祖父の体をさすり、今消えんとする77才の命に奇跡を起こそうとしていた。父親が二度、「もう、やめなさい」と促すと、漸く若者は我に返ってその手を止めた。

 私たちは、父が好きだった歌をメドレーで歌った。「大楠公(青葉茂れる桜井の…)」「荒城の月」「ローレライ」、そして海軍主計大尉だった父の思い出の曲「海ゆかば」や「パラオ恋しや」など。 

 いよいよ天命を受け入れる時が来た。長男である弟武澄が突然「敬礼!」と号令をかけると、私たちは姿勢を正し、最敬礼で、それぞれに夫、父、祖父への別れを告げた。(つづく)