27日の通夜も、28日の告別式も本籍地である高知市の自宅で行った。父は生前、葬式は簡素に、新聞にも載せないように、と母に語っていたと言う。父の意を汲んで、私たちは静かな葬儀を、と考えた。しかし、通夜の日に高知新聞社が父の訃報を聞きつけ、翌28日の朝刊に父のことが記事として載った。父、伴 正一の生涯は次のように紹介された。

 「東大法学部を卒業後、昭和27年外務省入りし、パキスタン大使館参事官, 経済協力局技術課長、青年海外協力隊事務局長などを歴任。52年駐中国公使に就任し、55年帰国と同時に退官。同年参院選、58年と平成2年の衆院選に出馬したが、及ばなかった。日中友好会館理事長として国際交流に尽力したほか、国政や外交について発言を続けた」

 通夜の夜は、「南国」土佐の空に美しい三日月が懸った。私は一瞬「マレーシア」を想った。神官が帰られた後、会場は一変して、前庭と20畳のリビングルームや縁側を開放してのガーデン・パーティーとなった。心地よい夜風に誘われて、マレーシアの風情を思い出した私の即興である。ビールと簡単な摘まみしかなかったが、東京から駈けつけて下さった青年海外協力隊のOBたちも交えて、思い出話に花が咲き、悲しみの中にも笑いが聞こえるひとときだった。それは、「過去」と「現在」、そして「この世」と「あの世」が通い合う不思議な時間だった。満面の笑みをたたえた父の写真が「今夜は皆に集まってもらって、うれしいねぇ」と語りかけてくるようだった。

 一夜明けると、紺碧の空が広がっていた。それは、土佐の青い空が大好だった父への最後のはなむけのように思われた。花園のように美しくなった我が家には、県内からばかりでなく、東京からも多くの方々が弔問に来て下さった。

 いよいよ出棺という時、母の友人が縁側に出て「海ゆかば」を演奏してくださった。バイオリンとピアノで奏でられた、その荘重で雄々しい調べは、緑と光の間をぬって参列者の心に届き、懐旧の情を誘った。

 海ゆかば みづくかばね
 山ゆかば 草むすかばね
 大君の辺にこそ死なめ
 顧みはせじ

 歌意は「海を渡ってたとえ水中に死ぬようなことがあろうと、山に分け入って、草の生えた屍になるようなことがあろうと、どんな危険の中であれ大君のおそばを離れることはけっしてするまい。一身を顧みず最後まで大君を守って死のう」という内容である(溝口睦子著『古代氏族の系譜』)。

 この歌は、『万葉集』卷18の大伴家持の長歌に出て来る一節で、昭和12年に信時潔が曲をつけたものである。実はこの歌にはもう一つ、明治13年に宮内省雅楽部伶人の東儀季芳が作曲したものがあり、海軍の礼式歌や「軍艦マーチ」の間奏曲として演奏されていたが、戦争中に国民の愛唱歌として歌われたのは信時潔のメロディーの方である。

 戦後この曲は顧みられず、中には戦争中の思い出と結びつくからと拒否反応を示す人もいるが、その旋律は千年の響きを伝えていると思われるような美しい曲である。

 戦争中に東南アジアにも伝わり、今でもインドネシアやマレーシアでたまに出会う曲である。つい最近も、こんな話を聞いた。日本の若者がインドネシアの山奥で、ある老人が昔の記憶をたどってこの曲を口ずさむのを聴き、その美しさ故に複雑な心境になったというのである。

 「海ゆかば」の歌詞は現代日本人には馴染みにくいものかもしれないが、もともとは天皇の親衛隊だった大伴家の「言立て」(ことだて、「宣言する」の意)だったと言われる。父がこの歌を愛したのは、海軍の思い出と、伴家の「伝説」が重なったからかもしれない。

 父は死ぬまで寝ても覚めても「国」を思った人である。そして、日本が世界のためにどのような貢献ができるかを考え続けた人だった。

 さようなら、Daddy ! We are proud of you !

 野辺で家族や親戚、親しい友人に再び「挙手の礼」で見送られた父は、土佐の山間から、太平洋へと大空を飛翔して行った。