父の随想から(1)
主のいない庭で、白い紫陽花が微かな色をつけて雨に濡れている。残された母を守るため、私は暫く日本に留まることにした。おとなってくださる方々の応対や残務整理をしながら、私たちの父をたずねる旅がはじまった。
今日から数回にわたり、父の随想をいくつか選んで連載したい。
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自分ひとりの納得 伴 正一
1 ある青春
今から半世紀前のきょう6月19日、世界の二大海軍国の間に史上空前、絶後の大海戦が行なわれた。
部内では、「あ号作戦」といい、公表名では「マリアナ沖海戦」と呼ばれるものである。日本海軍をこぞる第一機動艦隊が編成され、加わる駆逐艦霜月の我ら乗組員も、「こんどこそ」という勝ち戦への思いに胸が高鳴っていた。
今にして思えば、勝てると思って臨んだ、日本海軍最後の海戦だった。
国が生き残れるかどうかを賭けたこの大海戦に加われることは、素直に嬉しかった。生への執着が、こんなにきれいにさっぱりと拭い去られた感じになったことは、後にも先にもこのときしかない。
確かにそれは、思いを国の前途に馳せながら今日の戦いに散る、軍人の”さだめ”のあわれさを思わせる。また、戦い敗れてこの方、そんなときのそんな心意気は、一顧だに与えられることがなかった。
だが、半世紀前のきょうの私、青春の血がたぎりにたぎっていた瞬間の私を、今の私がどう見るか、どう感じるかは、私の人生が第一義的に私のものであるということから当然に、私の自由だと思う。
2 もう一つの青春
私は、中田厚仁君(注)の場合を色々と想像する。中でもその志について…。
中田君が身の危険を顧みず実現しようとしたのは、戦火におびえることのない世界。その壮大なロマンに彼は生き、殉じたのだと思う。
息子はあれで本望だったでしょう、というお父さんの言葉に度肝を抜かれて、もっと命を大切にという議論はほとんど出ずじまい。こうして中田君は、仏教の言葉を借りるなら、立派に”大我”に生き、しかも、人命至上の現代思潮のさ中で、珍しく肯定的評価を得ることができた。
でもやっぱり、と私は思う。大切なのは、死後に寄せられた万人の評価よりも、自らの青春に対する、本人の、自分ひとりの納得だったと。
(「協力隊を育てる会ニュース」 1994年6月号寄稿)
(注): 中田厚仁
国連ボランティアとして、UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)の任務遂行中、1993年4月28日カンボジアのコンポトム州で殉職した。25才だった。中田さんについては以下を御参照。 Japan on the Globe (32) 人物探訪:現代青年の威厳―中田厚仁さん
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog032.html