小満




 今年も5月26日の父の命日がやってくる。数年の闘病の末、77歳で亡くなってから25年の年月が流れた。77歳ーちょうど今の私の年である.そう考えると、今、多少体の不自由があっても自分が生かされていることが勿体なく、父に申し訳ないような気さえする。

 今年私は77歳の喜寿を、家族や友人のお陰で人生の大きな節目とすることができた。3月から続いたサプライズの数々、気持ちの高揚は4月の誕生日を過ぎても続いている。
 
 その一つが甥正海さんが作ってくれたAIによる私の一生を描いた動画である。そのことは既に書いた。

 ❤伴美喜子の人生ーAIによる審判 

 6本の動画(7分程度)には不思議と父伴正一のことが詳しく出てくる(後で聞けば、正海さんが父のことを加えるよう指示したという)。私のブログのコラムのタイトル「平成の侍」を引用したり、私のことを「侍の娘」と称したり、ナレーションは私の精神的な礎は父から譲り受けたものであると語る。
 
 父の一生がコンパクトに紹介された後(私のブログの写真から読み取ったようだ)、父と娘の絆が詳しく描かれている。

・ 父は娘の良き理解者で、47歳で安定したキャリアを投げ打って、すべてをリセットして再びマレーシアに渡った娘を温かく見守てくれた。

・ 一時帰国の折には、東京の父の狭いマンションに泊めてくれ、夜遅くまでマレーシアのこと、国際情勢、東南アジアや日本の歴史などについて熱く語り合った。

・ 最後の別れ様子も下記の私の文章から引用している。

「思い出すのは父との『最後』の別れである。亡くなる半年以上前のことである。一時帰国してマレーシアに戻る時、闘病中の父はいつになく私を丁重に見送ってくれた。玄関で長い長い握手を交わし、父の手のぬくもりが私の体にじわっと伝わってきた感触を今も覚えている。通りに出て振り返ると、着物姿の父が縁側に回っていつまでも手を振ってくれていた。
 さ・よ・う・な・ら ー私は力を振り絞って心の中で呟いた。その後、何度か父に会っているが、その時が実質の『今生の別れ』であったように思う。あれは父と娘の別れの『儀式』だったのだ」

・ マレーシア滞在の卒業論文でもあり、父に提出すべきだった『マレーシア凛凛』は父に手に取ってもらうことができなかった。

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 私はAIに言われて「そうだったんだ、私の一生は父の理解と深い愛に導かれたものだったんだ!」と改めて気付かされた。
 
 一度も「嫁に行く気はないのか」「好きな人はおらんのか」などと聞くこともなく、ただ娘の「運命」を温かく見守ってくれていたのだ。 AIの「血の通った」?分析には驚くばかりだ。

 そして私は更に考え、父との繋がりを次のように結論づけた。

 父と私の絆の背後にあったのは、実は壮絶な戦争を体験した父の思いとアパルヘイトという強烈な体験をした私の思いであり、それが「マレーシア」というテーマで交わったのだ、と。

 人生を振り返り、自分の運命に対し私なりの「納得」(父の言葉を借りるならば、「例えそれが自分一人のものであったとしても」)が出来たことは喜寿の最大の贈り物だった。

 

お父様、庭のジャカランダがどんどん空に伸びていきます



父上にインドネシア曲、Ayah(おとうさん)を贈ります





リンク:
☘ 平成の侍
☘ 父への手紙(1)
☘ 父への手紙(2)

☘ 泉下の父を思い出してくれた「小社会」
☘  伴正一氏と戦後の日本政府の移住政策について

参考文献
❤吉岡逸夫 『政治の風格―総理をめざした外交官 伴正一の生涯―』 2009年 高陵社書店