先日、一通の葉書が届いた。

 小学校時代の恩師からで、私宛の住所は手書き、文章は印刷してあった。



前略ごめんください。
私は 2023 年 7 月 1 日 永遠の天空へ旅立ちました。95 歳でした。
これまで、多くの方々に支えられ、援けられてきました。ここに心より深く深く
感謝し、御礼申し上げます。
       (中略)
そして多くの教え子のみなさん、深い絆で結ばれていること、心より嬉しく嬉しく、
”ありがとう” を申し上げます。
なお、私には連絡先も問い合わせ先もありません。お墓も仏壇もありません。
お声をかけて下されば、”千の風となって”、すぐあなたのそばに飛んで伺います。
では、改めて“さようなら” そして “ありがとう”。 

村田保太郎





 日付と歳だけがペンで記入されていた。・・・そうか、子供のいない先生は亡くなる前にこの葉書を準備され、自分が旅立ったら発送してほしいと誰かに頼んであったにちがいない。死亡の通知は遺族から受けるものだと思っていたが、亡くなった本人から挨拶を受け取るのは生まれて初めてのことで驚いた。心を落ち着けて読むと、文章も先生のお人柄が滲み出ていた。何と哀しく、そして粋な人生の仕舞い方なのだろう。

 村田保太郎先生とは私が小学2年生の時、1回目のアメリカ滞在を終えて帰国した折に、杉並区の小学校で出会った。帰国子女だった私に先生は日本流を無理やりに押し付けず、「アメリカ帰りのユニークな子?」として、大らかに受け入れ、指導して下さった。

 残念なことに私は1年足らずで転校することになったが、先生とはその後も文通を続け、小学校、中学校時代には時折音楽会やお芝居にも誘っていただいた。南アフリカから帰ってから、当時高校生だった私は先生の奥様たちに英語を教えたりした。

 社会人となってからはなかなかお会いする機会がなく、長いブランクがあったが、7年前に先生の奥様が突然亡くなり、用意されていた相模原のホームに移られてからは頻繁にお見舞いに伺った。終活で見つかった小学校時代の絵日記や先生にいただいた手紙を持って行き、お見せした時には先生は大変喜ばれた。50年前のことを先生はまるでご自身の青春時代を思い出されたように懐かしがっておられた。

 コロナが始まった頃、お体が不自由になって横浜のケアセンターに移られたが、面会は許されず、お電話もうまく繋がらず、ずっと気になっていた。コロナも収まって、もうそろそろお会いできるのではないか、今度上京した折にはきっと、きっとお訪ねしようと思っていた矢先のことだった。

 先生は何と、ご自分の誕生日、そして奥様が亡くなられた同じ日に旅立たれたのですね。もう一度お会いしたかったのに残念です。でも、・・・泣きません! だって“千の風になって”私のそばにいて下さるのですから。そしてこれからもずっと私を見守って下さるのですから。

 村田先生、ありがとうございました。どうか奥様の元で安らかにお眠りください。

 地上は間もなく梅雨明け、今年も暑い夏がやってきます。     

小学校の教え子より



大きな模造紙にのびのびと描いた絵が先生に褒められた。


❤ 絵日記(小学2年生)

せんせいがぷうるにきてくださいました。せんせいとおててをつないだりおんぶをしたり みきこはうれしくてなりませんでした。いつもせんせいといっしょにいたいなとおもいました。


みきこが描いた村田先生のポートレート(もっとお優しい顔でしたが・・・)