小暑

 アイロンがけは私にとって、家事の中でも特別な思いがある。

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 記憶の彼方―私が小学校の低学年だった頃、私たち家族はサンフランシスコに住んでいた。父が気張ってかなり高級な住宅地に家を借りてくれた。芝生の前庭と裏庭があり、玄関は階段を上がったところにあって、ちょっと身分不相応な素敵な家だった。わずか1年だったが、私たちはアメリカの優雅な住まいを経験することができた。

 お隣に子沢山の若夫婦が住んでいて、家に呼んでくれたり、私を教会の日曜学校に誘ってくれるなど、親切にしてくれた。そのお家に伺うと、若いお母さんが忙しいのに、よくアイロンがけをしていた。糊の効いたシーツやテーブルクロスを何時間もかけて仕上げる姿に、子供心にリネンを大切にする文化を印象付けられた。

 その影響だろうか、日本のうさぎ小屋に帰ってからも我が家では、狭い部屋に大きなアイロン台を所狭しと広げてよくアイロンがけをしていた。週1回、シーツや枕カバーにアイロンをかけるのは「お利口さん」の長女の仕事だったような気がする。特に夏は重労働で、短パン姿の私は汗を掻き掻き、パリッと糊のついたシーツにシワが残らないようにと、念入りにアイロンをあてた。家族が夜、気持ちよく寝られますように、と願って。


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 1999年に下の弟幸衛が42歳で南アフリカで交通事故に遭って亡くなった。当時はまだ生きていた義妹の佳子さんが、通夜の夜、語ってくれた言葉を「鎮魂歌」に書き留めてある。

 「幸衛さんは、糊のパリッと効いたワイシャツが好きだったんです。毎朝、バリバリと音を立てて糊の効いたワイシャツに手を通す時、『今日も一生懸命やるぞ!』という元気が湧いてくると言っていました。でも、メキシコや南アフリカのクリーニング屋から戻ってくるワイシャツはよれよれで・・・。だから、私が一生懸命糊を立てて、自分でアイロンをかけていたんです。私、アイロン嫌いじゃないんですよ。こんなことでも、幸衛さんに協力できたら、と思って・・・」

 佳子さんは猛烈商社マンの幸衛を献身的に支えてくれていたのだ。


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 マレーシアとの思い出もある。私はひょんなことで、マハティール元首相の義姉Tan Sri Dr. Saleha Mohd Ali氏と親しくしていただいた時期がある。私は親しみを込めてKakak Saleha(サレハ姉さん)と呼んでいた。ある時、サレハさんが日経新聞主催の国際会議「アジアの未来」に出席したマハティール首相に随行して来日した。2日間に亘るシンポジウムに誘われたのだが、当時浦和の国際交流基金日本語センターに勤務していた私に、サレハさんは「遠いから初日の夜は私と一緒にホテル・オークラに泊まればいいわ」と言ってくださった。而して私はマレーシア首相の義姉とダブルベッドで一夜を明かすことになった。

 「Ms Ban, あなたは夜中に咳をしていたわね。私もお下が弱くなって何度もトイレにいってしまうのよ・・・」など、一夜を共にし、お互いの「秘密」を知る仲となった。

 スーツケースを開けて、「見て、これメイドの〇〇ちゃんが揃えてくれたんだけれど、
要らないもの沢山入っているの。困った子ね・・・。インドネシアから来ていて、もう長く私に仕えてくれているのだけれど・・・」などと微笑ましい話を独り言のように語ってくれた。

 翌朝、サレハさんはアイロンとアイロン台を部屋に届けてもらい、自ら、その日着るバジュクロン(マレーの服)にアイロンをかけていた。何やら歌を口ずさみながら・・・。

 「私、アイロンがけだけは自分でやらないと気が済まないの。アイロンをかけながら、その日のスケジュールを確認したり、会う方とお話する内容などを考えるのよ。私にとって、とても大切で、いい時間なのよ」

 あのフレンドリーで驚くほど「無防備」だったサレハ姉さんはもうこの世にいない。


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 最近(と言っても4年前)、日経新聞で帝国ホテルのコック長のインタビュー記事を読んだことがある。「My Charge」というコーナーには「アイロンがけ 休日の儀式」「無心で1時間 心も真っ白」という副題がついていた。
 
 「朝、出社する際にきちっとしたシャツを着て、さりげない洗濯の香りがすると『さぁ、仕事に行こうと気合が入る』。逆に気に入らないと、前身ごろだけアイロンをかけ直す。典型的なA型なんですね。」

 この文章を読んだ時、「弟と同じことを言う人がいるのだなぁ」と懐かしく思い、その記事を切り抜いておいた。

 アイロンがけの不思議 ―アイロンがけに纏わる思い出はつきない。