母久子も姉と同じようにコスモスを愛した



化粧 ―粧という女

 母の名が粧(よそい)であることは前にふれた。どうしてこんな名が付けられたかは知らないが、全くよく言い表した名前である。「名詮自性」という言葉があるが、名は性格を表している。母がお化粧をしないで人前に出たことは、長い間母の傍にいた私でも滅多に見たことはなかった。いざ外出という間際に鏡に向かって長い時間をかけ、待っている亭主をイライラさせ、子供をして玄関を出たり入ったりさせる光景はよく見受けるところであるが、母は私たちが起きた時には、もうちゃんとお化粧を済ませていた。それだけ他人より早く起きなければならぬことは言うまでもない。それだけの努力を彼女はしていたのであった。
 
 「士は己を知る者のために死し、女は己を愛する者のために容づくる」と史記にあるが、化粧は本来そうしたものであっただろう。社交場裡に出かけるために化粧するようになったのは、むしろ婦人が社交を持つようになった西欧的なもので、我が国でも明治以降の産物ではなかろうか。何れにせよ、母も晩年はかなり社交的になっていたので、外出の前に鏡の前に座ることはよく見かけたものであるが、それはエチケットとしてのそれで、本来の化粧は朝起きたとたんに済ませていたらしい。

 母は大体社交的であった。特に子供たちが巣立ってしまい、本百姓をやめて身辺が自由になると、芝居、映画の見物から踊りの稽古、さては謡曲の会と多趣味であったので、人を招いたり、出かけたりすることが多かった。そういったことが心から好きであった。だから化粧も当然欠かすことが出来なかったのであろう。

 母は姉のように美しくはなかったが、その嗜みは、小綺麗にし、いつも身仕舞いをきちんとしていた。教育者の妻であるという自識が手伝ったことは無論であろうが、そうしなければおられなかったのであろう。それだけに、我が身をよそおっていた訳である。よそおうということは努力のいることで、時には赤裸々の良さを隠してしまうものであるが、それが慣れてしまって、身についてしまうと、わざとらしくなくなる。即ち自然的な美しさになってくる。私自身、母を美人だとは思わないが、いつまでも若々しく、きちんとしているのが好きであった。母には「春の暁山雪が降る」という技巧的な点がなかった。

 母の張り切った皮膚、白い肌、全く70歳を越した老人という感じはしなかった。従って、神経痛が起こったり、手足が痺れ出したと言っても、余りそれらしく見られなかった。父が「いつまでも使いものになる」と思って無理の用を言いつけたのも、そんなところにあったのでなかったか、と今にして思うのである。そう考えると、粧は「よそい」のためにその寿命を早めたとも言えるのではないだろうか。                         

   (つづく)

 


粧さん夫婦には息子2人、娘2人がいた

運命というべきか、2人の娘は全く違う人生を歩むことになる

❤  カナダ在住のLiu Ligang さんよりコメントをいただきました!
  リンク: 明治の女ー祖母よそい