【寒露】

     
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高知工科大学裏(香美市)のコスモス畑で留学生と戯れる



 コスモスの季節になった。この季節になると、この花をこよなく愛した伯母、酒井すみ子さんのことを思い出す。

 すみ子さんは母の姉であるが、同じ姉妹であっても、健康、活発だった母とは違って、若い頃から病弱だった。それでも縁あって、33歳の時に7人の子供を残して妻に先立たれた酒井三郎氏の後妻となり、62歳で水戸で亡くなるまで一生連れ添った。結婚生活の半分は病臥の生活だった。すみ子さんの女としての一生は涙を誘う。

 三郎さんがすみ子さんの一周忌に彼女の残した俳句と知人の思い出を織り交ぜてまとめた遺稿集『生命の灯もえる日々』(450頁に及ぶ)、そしてすみ子さんが記した小冊子『母の想い出―明治のおんな―』を久々に手に取って読み返してみた。
 
 『母の想い出―明治のおんな―』は祖母、片岡よそい(粧)のことをよく描いていて、すみ子さんの観察眼に改めて感心した。まるでファミリー・ヒストリーのフイルムを回しているようだった。粧さんとすみ子さんを偲んで、一部を転載したい。

母の想い出―明治のおんな― (1971年7月、酒井すみ子)

はしがき(抜粋)

 私は昨年の夏、母を喪った。それから何か母について想い出す毎に涙が出て、もう1年も近い今でも、泣き伏すことが多い。なぜこんなに泣くのか、とおかしくなるこの頃である。

  母のよさ、母の欠点、それらは確かに昭和の今日では見られないものであろう。やはり母は明治のおんなであった、と言ってよろしかろうか。
 
 私は心臓肥大、心不全などの持病があり、家事もほとんどできない。台所に立っているとすぐ動悸がして、立っておられなくなる。こうした身体を奮い起こすためにも母の努力は立派な手本になる。この文章を書き続けることで、起き上がりの一助としてゆきたいと念じている。

母の一生

 私はかつて母について、こんな句ともわからぬものを作ったことがある。

   端午の日生まれし母ははつらつと

 母は明治27年5月5日の生まれであった。そして昭和45年8月30日に世を去った。まさに76歳と3か月余であった。法名は慈光院寿覚妙粧大姉、俗名は粧(よそい)である。割合に健康で、晩年神経痛、高血圧、膀胱炎などあったが、それはまだ彼女の生命を奪うほどではなかった。

 思い起こせば母の命日に先立つ旬日、8月21日、土佐は空前の台風に襲われた。いわゆる「土佐湾台風」である。高知県庁の電停付近では自動車が吹き飛ばされ、よさこい節で有名なはりまや橋付近は漫々たる濁水の海であった。朝九時の高知市の最大瞬間風速は54.3米と言われている。老夫婦の住む城山は、高台で暴風雨を真っ向から受けた。時に父は病床にあった。屋根瓦が飛び、窓は吹き抜かれ、病人を抱えてのその恐怖は、彼女を嫌という程叩きつけたに違いない。台風は去ったが、彼女の心身に受けた傷は癒えなかった。母の命脈はこの台風によって断たれたといっても過言ではなかろう。

 それでも8月25日、母は外出した。家から50米もないところまで帰って来て足が動かなくなった。台風の後始末のために帰省していた弟勘二郎が声を聞いてすぐに駆けつけて家に運び込み、床に入れたが、その夜から昏睡状態に入った。私が母を見たのはこの状態だった。それから5日間、さも快い眠りのごとく、母は昏々と眠り続けた。一生働き続けて休む間のなかった母は、最も安らかな休養を取っているかのように見えた。そして、目覚めぬままに私どもを遺して逝ってしまったのである。

 人間の評価は棺の蓋をしてからわかるというが、若し母を評価してよい時期とするならば、公平に言って、彼女は妻として、母として、女として立派なものであったと思う。とりわけ私が取り上げたいことは、彼女が自分のためよりも他人のために尽くしたということであった。もともと他人のためにすることが自分のためになることで、完全に離して見ることはできないものであるが、母は一日も無駄に費やすことなく、生涯の限りを尽くして他人のために働いたと言えよう。

 嫁しては家に従い、夫に従いという言葉は封建制の名残のように言われているが、母は正にその中の女であった。私が5,6歳の頃であったと思うが、母は父の意に従って別居して、3年間祖父母のもとで、全く経験のない百姓をしなければならなかった。祖父は厳しい人で、百姓の経験のない母には苦労の多いことであったらしい。祖父について行けない時「それが試練であるとも考えられず、もっと優しく気長に教えてほしかった」と母は当時を述懐していた。この時味方になってくれたのは曽祖父だったらしい。「初めから上手にいくわけはない。まあそろそろやることだ」「そこは暑いから、こちらの陰でやるように」と労ってくれたそうである。3年が経過した頃には、母は片岡家にはなくてはならない人となり、祖父母には大変惜しまれたとのことであった。

 私の父母は、父の仕事の関係で、高知、長野、茨城、福岡、高知、鹿児島、新潟、宮崎、高知と各地で暮らしているが、老後は高知市の南郊、鷲尾山、筆山を一望するところ、鏡川の右岸の高台に住まうことになった。城山と呼ばれる一角である。老後の父母の生活は、平和そのもののように見えて、なかなか苦労の多いことであったことは母の日記から読み取れる。 

 (つづく)
 

嫁ぐ前のすみ子さん