揺れやまぬコスモスなれど冬隣(すみ子)


夫婦の愛

 父が母を愛していたことは分かるし、母もそれに劣らず父を愛していたことも分かる。それは若い男女が「ほれる、はれる」と言ったものとは次元の違うものであろう。夫婦の愛の深さは、金婚式を迎えるようになって初めて分かるような気がする。父はタイラントであった。母に対してはとりわけ絶対的であった。母はひたすら父に仕えた。実際「仕える」と言う言葉が、そのまま当たる有様であった。しかし、仕えるようにしていて実は操縦していたのかも知れぬ。父は一本調子で「カンキ」とあだ名される頑固者であるが、直情径行型の涙もろい男であった。芯の強さは母が数等上だった。次のことはその良い例である。

 それは父が高知県の教育委員長をやっていた時代のことである。確か「勤務評定」が喧しかった最中のことである。ある朝、はちまき姿の先生方が何十人かで城山の宅を囲み、「片岡を出せ」とわめきたてた。玄関に出た母は泰然として「皆さん公私は別にしてください。ここは私の家です。憩いの場所です。主人に話があれば役所でしてください。すぐさまお立ち退きください」と言ったそうである。何かのついでに母から出た話だった。その時父がどうしていたかは聞かなかったが、雲隠れでもしていたのではないだろうか。

 父は年とともにいろいろな病気が出てきた。そして幾度か入院する羽目となった。わがままな父は病院の食事は嫌だと言って、食事を母に運こばせた。父は母の食事以外は食べたくなかったのだろう。勝手な父も父だが、それを許す母も母である。夫はよく「父の身体を弱くしたのは母の責任だ」と言っていたが、あるいはそうかも知れないと、「過保護」という言葉を思い浮かべ考えるのである。しかし、父はこうして甘えるところに、妻と一つになろうとし、母も苦労して努めるところに、妻としての喜びを感じていたのかも知れぬ。

 食事のみではなかった。父の入院中、花が咲けば重い鉢を抱えて病院に運んだ。菊が咲いたと言えば菊、ダリヤが咲けばダリヤ・・・、百合、バラ、鉢の花と生花が父の枕辺にない時はなかった。隣のベットの人は言っていた。「こうした看病で病気が治らぬはずはない」と。要するに、母は「夫を恢復させねばならない」との誠を尽くしたのであった。この努力の裡に私は深い夫婦の愛を感ずるのである。

 母の日記の最近のところで著しく目につくのは、父の身体の衰えとともに、自らの体力の限界を示しつつあったことである。血圧が170から188を示したのが、6,7,8月である。血圧を測るということ自体、自らの体力に不安を感じているということの証拠である。

 日記に必ず家計の出費を記入していることも注目に値する。片岡家にはお客が絶えなかった。母はお客のおもてなしが上手であったし、お客が来ないことを淋しがった。従ってお客は再訪を期する。こうして接客の費用が少なくなかった。父の入院費、治療費はもとより、母の死去の1年位前から、母の薬とマッサージの費用は並々ならぬものがあった。その上父の食餌に母が贅を尽くしたことも平素からであった。私共子供がこの入費を的確にキャッチし得なかったことは残念であった。        

(この後、よそいの日記の抜粋が25ぺージに亘って続くが、省略する)                                                                    

 (つづく)

❤美喜子のつぶやき
「明治の女―祖母よそい」は長いものになってしまうが、やはり記録せずにはいられない。キーボードを叩いてすみ子さんの文章を写すことで、改めて祖母や伯母の思い、生き様、そして家族の歴史(出来事)を辿ることが出来た。

もう暫く家族の物語を続けたいので、どうぞお付き合いください。



明治の夫婦

孫たちの中で唯一の女の子だった美喜子は特に可愛いがられた