1967年父は南アフリカ共和国からパキスタンの日本大使館に転勤となった。私と弟武澄はその前に日本に帰国し、当時は珍しい帰国子女となっていたが、1968年の夏休みに両親を訪ねてパキスタンに行った。

 日本大使館はヒマラヤ山麓の原野に生まれたばかりの新しい首都、イスラマバードにあった。英国の植民地から独立する際にヒンドゥー教の国インドから分離したイスラームの国の首都にふさわしく「イスラームの町」と命名された都市である。

 町は建設途上にあり、政府の建物以外は未完成で、道も草ぼうぼうのところが多く、生活環境はなかなか厳しかった。買い物は10キロ離れたラワルピンディ(首都がカラチからイスラマバードに移転する間、仮の首都だった)まで行かなければならなかった。母は肉を買う日は5時前に起きて、肉が腐らないうちにと日が昇る前にラワルピンディのバザールまで出かけていた。ハエの集中攻撃を受け、匂いがプンプンする露店で足や羽の付いた鶏や牛の肉のかたまりを買うのは慣れるまで大変なことだったに違いない。

 便利な生活は求められなかったが、その地域の過去には輝かしい歴史があって、私たちは車であちこち連れて行ってもらった。インダス文明の跡を留めるハラッパ、ムガール時代のイスラーム建築が残るラホール、そして仏像発祥(ガンダーラ美術)の地、タキシラなどなど。ガンダーラ遺跡は特に感動的だった。

 田んぼのあぜ道の中に、あるいは山の上に、二千年も前のストゥーパ(仏塔)や僧院が残っていた。博物館に収められているガンダーラ時代の仏像は明らかにギリシャの影響を受けており、ブッダが若く美しい青年の姿をしている。のびのびとした、宗教臭さのない彫刻だ。アレキサンダー大王がインドまで遠征したのは史実だと実感した。

 母はこのガンダーラに魅せられ、何度か通う内に、仏教の起源に興味を持ち、インドの仏跡を訪ねてみたいと思うようになっていた。

 そして、1969年3月にイスラマバードを出発して、 ニューデリー、ネパール、カルカッタ、ブッダガヤ、ベナレス、アグラ、ジャイプール、ニューデリー、イスラマバード、というコースで17日間のインド亜大陸旅行を実現させたのだった。行きはニューデリーまで車で父と一緒だったが、ネパールで父と分かれ、その後は弟幸衛と二人だけでインドを横断する。圧巻はニューデリーに置いてあった車を自ら運転して、小さな少年(11歳)と女一人でインド・パキスタンの国境を越えて800kmの道のりを帰って来たことである。1965年の印パ戦争後の緊張関係も続いており、車で国境を超えるのは男でも躊躇したに違いない。何と勇敢な(いや無謀というべきか)女性か! わが母ながら、驚く。
 
 当時40歳だった母の勇気には脱帽だが、同時に父の大きな包容力、寛大さ、真の勇気にも驚く。振り返ってみれば、父は「可愛い子には旅をさせよ」「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という教育方針の下、妻や子供たちの大いなる「成長」を期待したのである。

 話は戻るが、私と弟武澄はパキスタンから帰国する時、イスラマバードからカイバル峠を超えて、アフガニスタンのカブールまで車で送ってもらい(当時カブールは平和な首都だった!)、そこから共産圏ソ連(当時)のタシケント、サマルカンド、アルマータ、イルクーツク、ハバロフスク、ナホトカを通って、船で新潟まで帰ってきた。高校生だった私たちには大冒険だったが、その経験は計り知れないものだった。

 家族にこれらの経験の機会を与えてくれた父に対し、私たちは十分「期待」に応えることができただろうか、今、一生を振り返って自問する私である。



リンク:高校生夏休みワイド旅行―パキスタンから旧ソ連へ  https://ban-mikiko.com/142.html


母は勇敢な女性だった。


ガンダーラで父が入手した仏像(我が家の宝)

『大世界史6 ガンジスと三日月』を繰り返し読みながらインド亜大陸を旅する母