10月に一時帰国した折、高知の家の納戸を整理していたら、高校時代に弟武澄と二人で書いた作文が出てきた。「異色旅行記―夫婦じゃない、私達は姉弟です」と題して、雑誌『高一時代』(昭和43年11月号)に載ったものである。今日は恥ずかしながら、その作文をご紹介しよう。
 
異色旅行記―夫婦じゃない、私たちは姉弟です

 ■ 夏休みの贈りもの
 ヒマラヤ山麓の原野に新しく生まれた、世界でもっとも若い首都―パキスタンのイスラマバットに、いま、私たち妹弟は立っている。7月15日、日本をたって、パキスタンにやってきたのだ。

 ヒンズー教の国、インドと別れて独立した国の首都の名にふさわしい、イスラムの町という意味のイスラマバッドにどうして行くことになったかーそれは、両親と別れて東京で高校生活を送っている私たち二人への両親からの夏休みの贈りものだった。イスラマバットには父と母ともう一人の小さな弟が暮らしている。

 イスラマバットは幼い首都で、まだ建設中の町だ。政府の建物以外は末完成で、道も草ぼうぽうである。この町に住む人は、だから買物その他の用事があるときは、十キロ離れた旧都ラワルビンジへ出かけていく。

 パキスタンの町には、必ずバザール(市場)という、食料品・衣料品・日用品などを売っている賑やかな所がある。道は狭く、トンガ(二輪馬車)、牛、ろば、薄汚れた人びとが入り乱れている。くだもの、野菜が豊富で、店先にほ、商品が雛壇のように奥へ行くほど高く並ぺてある。露天では肉も売っている。大きな水牛や牛の肉の固まりをつるし、ハエがたかろうが、暑さのために匂いがプンプンし始めようが、売り手のおじさんは呑気に構えている。

 だから、母はいつも肉を買う日は、朝五時前に起きて、肉が腐らないうちにと、日の昇り切らない時に出かけていく。鶏肉は、生きた鶏でなければ、足やハネがついたままのものを買ってこなければならない。お店というお店はみなハエの集中攻撃を受けている。ハエの五、六十ぴき、気にしているようでは、パキスタンでは暮らせない。

 ■文明の跡をたずねる

 こうした国にも輝かしい過去の歴史がある。私たちはインダス文明の跡を留めるハラッパや、ラホールに残るムガール時代のイスラム建築、また数々の仏教遺跡をたずねた。

 パキスタン北部はまさにガンダーラ美術の発祥地である。田んぼのあぜ道の中に、あるいは山の上に、二千年も前のストゥパ(仏塔)やら、僧院が残っている。博物館に収められている仏像は、明らかにギリシアの影響を受けており、ブッダが美しく若い青年の姿として彫られている。実にのびのびとした、宗教臭さのない彫刻だ。

 あるとき、私たちは、アショカ王の石碑をさがして、シャバズガリという町で道をたずねた。「ジャパニゴダム」という看板がたっている小屋の中から、ガッチリした男の人が出てきて英語で「このすぐ近くです」と方向を示してくれた。

 はて、ジャバニゴダムとは何だろう。こんな田舎に、何か日本に関係したものがあるのだろうかーそのまま石碑のあるところまで行って、石に刻まれた文字を眺めていると、さっきの男の人が息を切らしてこちらにやってくるではないか!

「私は、京都大学の調査団の水野博士のもとで働いていた者ですが、旦那様と奥様は、私のことを覚えていらっしゃいますか?去年、お二人はこの坊やを連れて、水野博士が発掘していらっしゃる所をたずねて来られたでしょう?ー今、博士は日本にいらっしゃいます」
「ははあ--そういえば見覚えのある顔……」父と母は顔を見合わせた。
「このすぐ近くに、やはりこれもまた水野博士が数年前発掘された跡がありますが、そこへご案内しましょうか?」

 私たちは、焼けつく太陽の中を、この人に連れられて山登りした。すぐそこだと思っていたが、発掘跡はだいぷ山の高いところにあって、すっかりくたばってしまった。

 ジャパニゴダムにもどると、何もかもがわかった。つまり、ジャパニゴダムとは日本の倉庫という意味だったのだ。そして彼はそこの番人だった。倉庫の中は、石運び用のベルト、いす、スタンド、調査隊の方々の帽子などがあり、奥には貴重な仏像までおいてあった。この男は一切の保管を託せられたのだ。

「また日本人が発掘に来ます」彼が言った。
 それまでは、自分はここを守るのだ、という自身が彼の目にうかがわれた。

 汗か涙か、わけのわからぬ水の粒が頬を伝わっていた。全くの奇遇であった、ジャパニゴダムのオッサンとの出会い。しかもこんな田舎で。この日の旅は、すがすがしい思いで幕を閉じた。

 ■シルクロードをたどる

 8月18日、私たちは1ヵ月のパキスタン滞在に終止符を打って、アフガニスタンのカブールへ向けて出発した。いくつかのカスバ(街道沿いの小さな町)を通り過ぎ、インダス川を越え、古い時代の都であったぺシャワールを抜けて、カイバル峠にさしかかったのは、昼を大分過ぎてからだった。

 この峠は2千年以上前にアレキサンダー大王がインド遠征の折に越えたと伝えられるが、現在でも相当険しい山越えである。岩山が屏風のように道路の両側にそそり立ち、道は急力-ブしている。この峠を越えるとアフガニスタンの国境である。

 国境近くには、闇市があり、どこから人が集まるのか、大変な賑やかさである。日本製のトランジスタ、扇風機なども見え、パキスタンの市場では、お目にかからなかったアメリカやヨーロッパの製品が顔を並ぺている。 シルクロード時代の市場を思わせるような雰囲気で、人びとの姿もさまざまだ。

 国境を越えると、急に暑さが増す。熱風である。目の水分までが吸い取られてしまいそう。口もカラカラに乾き切って、五分おきに水を要求する。そんなとき、トンネルひとつ抜けると、眼下にコバルト色のカブール川が現われた。その美しさに私たちは、歓声を上げた。まるで染料を流したような、そんな鮮やかな青が、まわりの砂漠や、白っぽい山々と強烈な対照を示している。

 私たちは、車をとめて、この美しいカプール川に足をつけることにした。私たちは両手一杯にこの清い水をすくい、ロヘ流し込んだ。指の間からあふれる水が頬や首を伝わって、服の中へ流れ込む。私は狂喜し、今ここで死んでも悔いはないと本気で思った。

 このカブール川にそって、またいくつかの山を越えた。タ暮れになると、岩山が残光に映えてまるで後光が差したように荘厳な姿である。私は、神というものを感じた。そんな山の中にポツンポツンとある湖。油を流したようなその静かな湖は、神秘をたたえ「魔法の沼」と呼びたくなるようだ。

 今、私たちの通っている道は、何千年も昔から人類が歩いてきた道だ。ちょうど、私たちとは逆のコースで、アーリア人も、アレキサンダー大王も、玄奘も、ジンギスカンも、チムールも。そしてインドがイギリスの植民地だった頃は、大勢のイギリス人が通った。私たちは歴史の上を歩いているような心地だった。

 ■遊牧民に会う

 こうして私たちはその日、カブールの町に入った。その翌朝、ここから北西二百キロに位置するバーミヤンという町に向かった。ヒンズークシ山脈の中にある古い町バーミヤンまで、雪解けの水に沿ってポプラ並木を七時間も自動車に揺られた。

 道は埃っぽく、窓のすきまから白い砂煙が入ってくる。車の揺れ方はひどく、頭を天井にぶつけるので、手すりに終始しがみついたままだった。 遊牧民の一群に出会うと、羊が道をあけてくれるまで、エンジンを止めて待つ。

 このあたりは蒙古系の人間が多い。小さな村で車を止めると、村人がもの珍しそうに、私たちのまわりに集まってくる。日本人そっくりで、非常に親しみを感じる。

 「僕の鼻、ペッチャンコ、きみの鼻もペッチャンコ、同じねー」と、手まねで話すと、相手は嬉しそうに顔をほころぱす。私たちが「ヤポン、ヤパン、ジャパン」といろいろに言い変えては自分を指すと、しばらくして通じたようで、ホー、あなたたちは日本人か!というような顔をしている。日本という国を知っているようだ。

 高度3千メートルというバーミアンの夜は寒かった。夜空には無数の星が輝き、あふれた星の粒がこぼれ落ちてきそうだった。

 「明日、目が覚めたらすぐ向こうの山をごらんなさい。山に彫り込まれた53メートルと35メートルの大仏が、朝日に照らされて、それはそれは美しく見えますよ」と運転手が教えてくれた。

 ■共産囲に突入

 8月22日、カブールまで送ってくれた両親にいよいよ別れを告げる時がきた。これからは姉弟二人きりて共産圏の旅をすることになる。カブールから飛行機てタシケントヘ。ソ連 ―はじめての共産圏―私たちの胸に不安がよぎった。その不安は、タシケントでたちまち現実のものとなってしまった。

 タシケントのインツーリスト(ソ連旅行はすべてこの国営旅行社を通じて手続きを行なわなければならない)では私たちがカブールで買ったクーポンと引き換えに次の目的地へ行く飛行機の切符、ホテル、食事、各都市の見学券をもらう手はずになっていたのだが、昼食、夕食の券を係員がどうしても出してくれない。

 ロシア語は二人とも全然できないから、必死て係りのおばさんに食い下がったが、この頑固バアサンはこちらを「けしからん餓鬼ども」だと思っているようだ。予定ではその日のうちにサマルカンドヘ飛ぶつもりがどんどん時間がたってしまった。仕方なく、インツーリストの本部の責任者のところへ行って直接掛け合った。すると、さっきの係員の勘違いだとわかってようやく食券がもらえた。

 ところが、それからがまたいけない。すきっ腹をかかえて、レストランに入ったのだが、ロツア人はよくよく人を待たせる国民である。まずメニューを持ってくるのに30分、ロシア語はわからないから、日本語と手まねでスープとステーキを注文した。スープは臭くてダメ、ステーキはゴムのように固かった。

 だが、タシケントは、アジア後進国向けのソ連のショーウィンドーといわれるだけあって、パキスタン、アブガニスタンを見てきた私たちの目には、都市の近代化、清潔さが際立って見えた。中央アジアにあっても東洋系の人種は思ったより少なく、新しい町にはロシア人が半分以上いるといった感じであった。

 ■ 結婚式にまぎれこむ

 24日の午前中、タシケントの市内親光をすませ、町はずれにある中央アジアの回教の総本山、バラカン・マドレッサへ行った。女性の運転する電車に乗り、バスに乗り換えタクシーをひろって、やっとその回教寺院を見つけた。そこには昔ながらの泥塀の家が並んでいて、私たちの想像していたタシケントだった。

 寺院の外観は午前中に見た博物館化された回教寺続と同しだったが、そこには少数ではあるが回教徒がいた。しかし、パキスタンでみた回教寺院のように毎日大勢の人々が祈りにくる寺院ではなかった。今、ソ連から消え去ろうとしている回教のその弱々しい炎を見たような気がした。

 帰り道、乗物は面倒なので歩くことにした。また、両側が泥塀の道を帰った。途中で西瓜を買って食ぺていると、チンドン屋みたいな音を立てて、トラックが通っていった。

 結婚式だという。面白そうなのでついて行くと、大勢の人が踊りながら狭い路地へ入って行った。夢中になって写真を撮っていると、私たちはいつの間にか結婚式の会場の中に入っていた。そしてそのまま列席することになってしまった。

 ここでヴォッカ(酒)やチャパティや西瓜をご馳走になった。そのお酒の勧め方が愉快だ。まず自分が飲んで、毒も何も入っていないよと手まねする。

 会場のひとりが、「二人は夫婦か」と聞いた。
「とんでもない!」と私たち。
「じゃ、ぼくのお嫁さんになってくれ」とふざける。

 人々は本当に人なつっこく、私たちはすっかり酔ったような気分になった。そこで結婚式の贈り物に、お婿さんには三色ポールペン、お嫁さんにはハンカチをあげた。それを受け取ったお婿さんは私に抱きついて喜んでくれた。

 ■イルクーツクで日本人に会う

 中央アジアの上空を右手に雪の天山山脈を見ながらアルマアタヘと飛んだ私たちは、さらにイルクーツクへと向かった。イルクーツクは寒かった。ここは日本とヨーロッパの街道筋であるだけに日本人にもよく出会った。世界一深い湖といわれるバイカル湖や紅葉しはじめたシペリアのタイガ地帯の美しさに心を奪われた。

 外国旅行に出ると、日本人が懐かしくなるものだ。新潟までの船の中でもいろいろな人と友だちになった。それらの人々と話し合っていると、みな、平然とした顔で笑い会っているけれど、それぞれに大きな体験をした人たちだった。

 私たちはお互いの体験談を交換しあった。そうして話し合ってみると、世界は狭くなったと言われるけれど、それは交通や通信に要する時間のことだけであって、そこには厳然として国境があり、国境の「あちら」と「こちら」では大きく違うものだということを強く感じた。

 私たちは次第に日本に近づいていた。一ヵ月半の旅行中の出来事を一つ一つ思い出しながら、私たち二人は「すばらしい夏休みだったね!」とつぶやいた。