言葉を学ぶということ
多言語社会マレーシア
高知工科大学には50数名の博士課程後期留学生が来ているが、彼らの「公用語」、即ち研究は、原則として英語で行なわれている。
日本語は、来日時はゼロの人が多く、国際交流センターが提供する日本語クラスで学んで、初級程度の語学力を身につける。
1年半に亘って受講できるが、正規の科目ではないので、個人の「興味」と「努力」が大きくものを言う。
暫く経って日本語だけで会話が出来るようになる人もいれば、来て2年経っても、二言目には英語が出てくる人もいる。
彼らの3年間の留学生活において、「日本語」をどう位置づけ、どうサポートしたらよいのか、目下その基本方針について思案しているところだ。
12月に入って、日本語担当の久保先生に「ワンイーさんが4日の日曜日に香川大学へ日本語能力試験を受けに行きます」と教えてもらった。
一番難しい一級を受けるという。えくぼの可愛い、中国は新彊省出身のワンイーさんが早起きをして、一人で高松まで行く姿を思うと、そのけなげさに心打たれた。
ワンイーさんは瀋陽薬科大学の出身だが、3年生の時に集中して日本語教育を受け、4年生で専門の教科を日本語で学んだそうだ。中国東北地方では歴史的な経緯もあり、特に医学関係の大学が日本語教育に熱心である。
私が約20年勤めた国際交流基金の事業の大きな柱の一つに「日本語教育支援」があった。同基金の2003年の調査に拠れば、現在世界の日本語学習者は235万人(但し、この数にはテレビやラジオ、インターネットなどで学んでいる人は含まない)、5年前に比べ12パーセント増加している。
私もマレーシアで、毎年12月に世界で一斉に行われる日本語能力試験の実施機関のスタッフとして、また大学で教えていた時は学生を引率して何度も試験会場に詰めたことがあるが、受験者達の緊張した姿を見るにつけ、こんなにも多くの老若男女が日本語を勉強しているのかと感動したものである。
やはり、言葉を学ぶということは容易なことではない。
多民族国家マレーシアは多言語社会。一つの言語しかできないという人は珍しく、首都クアラルンプール辺りだと、国語のマレー語と英語ができるのは当たり前。
マレー系であればクルアーンを読むためにアラビア語、中国系は家で使う広東語や福建語などの方言の他、マンダリン(標準中国語)を、インド系はタミール語などができる。その上で第四番目、五番目の言語としての「日本語」である。
もちろん実利を目的とする人たちも多かったが、新たな言語を学ぶことを通じて異質なものに触れることが自分たちを高め、豊かにすることを知っていた。
マレーシア社会が持つ包容力、国際社会の一員としてのマチュアリティーはマレー文明、イスラーム文明、中国文明、インド文明、そして西洋文明を背景にしたマルチ言語社会が母体になっているのではないかと思ったものである。
真の国際人とは日本人として確立していることはもちろんのこと、様々な文明への理解、共感を持つことのできる人をいうのではないだろうか。
昨今は「英語」か「日本語」かの議論が盛んだが、「日本語+英語+もう一つの言語」くらいの心意気を持ちたいものである。
マレーシア国民大学で日本語を学ぶ学生たちと。「母語」の異なる学生たちと「チャンポン」語での授業を楽しんだ。