マレーシアとの交流
反日、親日、どっち?
高知工科大学に入る前の面接試験で、水野博之副学長から二つの印象深い質問を受けた。
その一。「このところ中国などの反日感情について色々と言われている一方で、アジアの人々の親日感情ということも聞きます。マレーシアあたりでは実際はどうなんですか」
以下、私の答えを改めて書いてみたいと思う。
日本とマレーシアの交流は古くはマラッカ王国時代(16世紀)に遡り、戦前もからゆきさんや邦人企業進出の時代があったが、民衆レベルでの本格的な接触は先の戦争の時から始まったと言える。
1941年12月8日未明、日本軍はマレー半島北東部コタバルに上陸した。大英帝国アジア植民地支配の牙城であったシンガポールの攻略作戦の始まりである。翌1942年2月15日、イギリス軍が無条件降伏をしたことにより、イギリスのマレー半島統治が終焉した。
代わって日本の軍政が始まり、3年8カ月に及ぶ日本占領が続く。この間、マレー系と中国系(当時は華僑と呼ばれた)とでは違った歴史が記憶に刻まれることになる。
日中戦争以来、反日運動を激化させてきた華僑に対して、日本軍は弾圧政策を取り、「粛清」を行ったり、「献金」を強要したりした。一方反抗した華僑達はマラヤ共産党が組織した「馬来亜(マラヤ)抗日人民軍」に参加し、ゲリラ活動を展開したのだった。
他方、マレー民族運動史においては、この時代は歴史の重要な一コマとなる。
マハティール前首相は日経新聞の「私の履歴書」(1995年)の中で次のように述べている。
「マレー人の誰もが、永遠に続くと思い込んでいた大英帝国の支配が一瞬にして崩れ去ったのだ。当時15歳だった私は強い衝撃を受けた。(中略)日本の侵略は英国の存在を無意識に前提にしていた私の世界観、価値観をひっくり返し、独立への意識を呼び起こしたのである」
マレーシアの日本語教育界の第一人者、アブドゥル・ラザク氏は元南方特別留学生でもあるが、私は何度も同氏から次のような言葉を聞いた。
「馬来亜(マラヤ)興亜訓練所や日本留学で学んだことが、その後の生き方に積極的な影響をもたらし、負けずに頑張る精神、困難に挫けない精神は一生を通じての生活信条ともなった」
時代が下って戦後は経済交流が加速する。マハティール前首相は著書『日本再生・アジア新生』(たちばな書店、1999年)の中で次のように述べている。
「アジアの奇跡が謳われた時代、大きな役割を果たしたのは外国からの直接投資であった。マレーシアに大挙してやってきたのは日本企業だった。今日、日系企業の生産はマレーシアのGDP23%を占めている」
マハティール首相が1981年に提唱した「ルックイースト政策」(東方に学べ)はマレーシアの対日観に大きな影響を及ぼし、マレーシアは世界で最も親日的な国の一つになった。
マレーシアでの居心地のよさはこのようなマレーシア人の日本人に対する上向きの「まなざし」によるところが大きい。
外国に出ると、どんなに小さな個人であれ、日本という国や日本の歴史を背負っていることをしみじみと感じる。と同時に私達の行い一つ一つが未来の日本のイメージの種をまいているのだと思う。イメージには時間的なズレがあることを忘れてはならない。
毎年8月31日の独立記念日には国中に国旗がなびく。下の文字は「マレーシアよ、あなたのお蔭で」と書かれている