浄化される尊い月

 夏がすっかり去ったある夜、バングラデシュから来ている留学生数名と土佐山田駅前の寿司屋で一緒に食事をした。新しく博士課程後期に入学したビマルさんの歓迎会だった。

 バングラデシュの人は皆イスラーム教徒だと思っていたら、ビマルさんはヒンズー教徒だという。

 イスラーム教徒が豚肉を食べないのは知っているが、ヒンズー教は確か牛肉がダメ、イスラーム教徒がいる中でビールはどうしよう。注文する前のチェック(気遣い)がややこしかった。

 その上、ビマルさんにとっては初めての日本。刺し身や寿司は食べられるかしら・・・。兎に角、品数多く注文して、食べられるものを選んでもらったらいい。何事も経験だ。かくしてテーブルの上に山海の珍味(?)が並んだ。

 イスラームを国教とする多民族の国マレーシアに長く住んだ私にとって、バングラデシュは陸続きの国としての親しみがあった。お酒は殆ど入らなかったが、話は盛り上がって楽しかった。

 食事が終わって、外に出ると爽やかな夜空に下弦の月が出ていた。

「来週はラマダーンね」
「伴先生も断食をしますか」
「そうね・・・。マレーシアではやったことがありますよ。1ヵ月は出来なかったけれど、1週間位」
「へえー、それはすごい!」

 パロビーさんが嬉しそうに言った。

 ラマダーン ――それは私にとって、美しい響き――   

 イスラーム暦の9月(ラマダーン)、南国の西の夕空に新月が「キラッと一瞬最初の光を放つ」と、その翌日から世界中のムスリム(イスラーム教徒)たちが一斉にⅠヵ月の断食に入る。

 富めるものも貧しきものも、ムスリムであれば皆一様に夜明け前から日没まで食べ物も飲み物もタバコも一切口にしない。「節制」と「忍耐」の1ヵ月が始まるのだ。

 太陰暦であるイスラーム暦は太陽暦に比べ約11日短いので断食月の到来は毎年繰り上がることになる。1日の断食開始と終了の時間も日により、場所により僅かに異なり、人々はその「時刻表」に従って「行」をする。

 10数時間以上、肉体的、精神的に「辛抱」した後は、日没時の断食明けを待つ。それは日本人が除夜の鐘を聞きながら新しい年を待つ気分にも似ている。

 その「時刻(とき)」を告げる「アザーン」(詩のような呼びかけ)がモスクやテレビ、ラジオから流れ始めると人々は待ち構えていたように目の前に用意してあった甘い飲み物を口にし、渇き切った喉を潤して疲れた体を癒す。「感謝」という感情が知らず知らず泉のように湧き出る。

 断食期間中は夕食が本当に楽しい。家ではお母さんがいつもより美味しいご馳走を作ってくれるし、街角の屋台には忙しい人のためにお持ち帰り用の珍しいおかずが並ぶ。親戚、友人、仕事仲間が誘い合って食事会を開くこともある。モスクでは貧しい人たちのために大盤(椀飯)振舞いが行われる。

 ラマダーンは貧しい人々に思いを馳せ、敬虔なムスリムに回帰する時である。夕食の後は夕涼み気分でモスクやスラウ(町内にある小さな礼拝所)にお祈りに行ったり、家でじっくりクルアーンを読み返したりする。

世界の12億ともいわれるムスリムにとって、ラマダーンは体と心が浄化される尊い月なのである。




クアラルンプール近郊のブルーモスク。断食月にはライトアップされ、その神秘的な美しさは息を飲むほどである。