アフリカの果てに散ったある企業戦士⑦
友衛16歳の使命
1999年10月25日、幸衛の葬儀・告別式が東京信濃町の千日谷会堂で、日商岩井の社葬にて執り行われ、引き続きキャピタル東急ホテルで「偲ぶ会」が開かれた。その日も秋晴れの美しい日だった。
日本橋小網神社の服部神官ら4人の神職が、日本古来の伝統に則り、神式によって幸衛の霊を鎮めて下さった。奏上された祝詞の中には42歳で壮絶な死を遂げた息子のために父親が詠んだ歌が織り込まれた。
みづみづし命は絶えぬ最果ての務めに励むその道すがら(伴正一)
冒頭の言葉は「みづみづし久米の子らが」で始まる『日本書紀』の有名な一節にちなんだものである。
安武社長、兼松本部長、同期の松本氏による、心情溢れる弔辞の朗読のあと、横笛が美しい短調の調べを奏する中で、600人余りの方々が玉串を捧げて下さった。
昔私達家族のペット的存在だった幸衛は、アフリカの最果てで突然その若い命を絶たれたことで、いつの間にか私達の手の届かぬ小さなヒーローになっていた。
これまで故人や残された私達家族にお寄せ頂いた、多くの方々のご厚情に深謝しつつ、この姉から弟への「鎮魂歌」を終えることにしたい。
◇ ◇ ◇
「アフリカの果てに散ったある企業戦士」後記
幸衛が亡くなって6年後の2005年11月4日、妻佳子さんが1年余りの闘病の末、東京の癌研有明病院で息をひきとった。
二人の愛の結晶である一人息子の友衛は、少年か青年か見分けがつかぬ16歳の若さで一人、この世に残された。
伯父武澄の計らいで喪主になった友衛は、会葬御礼も自分の言葉で書くことになった。指南役を務めた私は甥友衛と初めて向き合う時間を持つことができた。
「最後はやはり『これからも宜しくお願い致します』がいいのではないかしら。日本人がとっても大切にしている言葉だけど、英語にはないのよ。みっこちゃん(私の愛称)はいろんな経験をしてきたからよくわかるけど、『縁』というものはとても大切なものなのよ。友衛君もお父さんやお母さんが築いたご縁を大切な宝として、引き継がなくてはね」
「人間には二つの家族があるの。生まれた家族と新たに創る家族。私には生まれた家族しかないけれど、友衛君にはもう一つの家族を創るという大切な・・・・・何と言えばいいのかしら・・・仕事、役割・・・があるのよね」
「『使命』ということですか」
私は口に出せなかった重い言葉を16歳の少年に言い当てられてドキッとした。
「・・・俺、25歳ぐらいで結婚しようと思う」
「そうよ、子供もたくさん・・・」
「一人っ子はいやです!」
1時間あまりおしゃべりをしながら出来上がった会葬御礼は次のように力強く締め括ってあった。
「自分を不幸と思うな、という母の言葉を胸に、大きく成長していきたいと思いますので、今後とも宜しくお願い申し上げます」
私は全身に、「家族」や「家」という大きなテーマが深く重く、沈殿していくのを感じた。(了)
伴幸衛一家最後の一枚 (南アフリカ喜望峰にて)