アジア人としての目覚め

 東京からヨハネスブルグまでの飛行は長くもあり、短くも感じられた。弟の死がまだ「現実」となっていなかった私達は、時々そのことを忘れたかのように、色々な思い出話をした。30年前の南アの情景が走馬灯のように次から次へと浮かんだ。

 当時は町の至る所で「European Only」という文字が目についた。トイレやエレベーター、郵便局などの入り口もみな「European」と「Non-European」に分かれており、黒人たちは、住み込みの使用人を除いて、町の中心部に住むことを許されず、ロケーションと呼ばれる特別居住区に押し込められていた。

 白人と黒人の異性が一対一で部屋にいるところを見つかれば、即座に「背徳法」で捕まるような世界であった。

 日本人は「名誉白人」と呼ばれ、慣習的には「European」の仲間として扱われていたので、黒人や他の有色人種に対するような差別は受けなかったものの、皆無ということではなく、公立の学校に入れなかったり、レストランでじろじろと冷たい目で見られたり、地方のガソリン・スタンドでトイレの使用を断られたり、うぶな心を傷つけられることも少なくなかった。

 当時、在留邦人は多くはなかったけれど、大半の人は「名誉白人」としての地位と優雅な生活に胡坐をかき、社会正義について考える人は少なかった。私達はそのことをとても残念に思っていた。

 ある日、ロンドンから朝日新聞の記者が南アに来られた。そして、次のようなエピソードを語ってくれた。

 ヨハネスブルグで、あるレストランに入ろうとしたが、「European Only!」と言って断られた。「I am a Japanese」と言えば多分入れてくれただろう。それは簡単なことだった。

 しかし、有色人種の顔をしていながら、そのようなことを言えば、「 I am not a Chinese」「I am not an Asian」と言うに等しい。自分はどうしても、そのようなことは言えず、複雑な思いでその場を立ち去った・・・。

 この時の言葉は水が砂漠の砂にしみ込むように、私達の良心を潤し、アジア人としての「目覚め」を促した。私の「アジアへの共感」の原点はここにある。

 あの頃から30年余りの歳月が流れた。その間、南アには「奇跡」が起きていた。1991年にアパルトヘイトが廃止されたのである!言うなれば無血革命だ。

 1994年、全人種による総選挙が実施され、ネルソン・マンデラ氏が大統領に就任した。マンデラ氏は、黒人にも白人にも愛された魅力ある指導者だったという。

 折も折なので、市内見学をする時間や心の余裕はないと知りつつも、私達の新生南アに対する期待と不安は密かに膨らむのだった。

 ヨハネスブルグ空港での、幸衛の家族との辛い再会を終えて、私達は車で空港から幸衛の家へ向かった。

 南半球にある南アは、春だというのに緑が少なく、高速道路の両側に広がるカルーと呼ばれる乾燥丘陵は、緑が溢れる湿潤な東南アジアに比べれば、砂漠に近い風土だった。からからに乾いたユーカリの木がすらっと天に向かって伸びていた。 (つづく)




我が家で働いていたメイドのジュリーさんたちと。赤ちゃんの名前は私の名前をとって「MIKIKO」。