アフリカの果てに散ったある企業戦士①
思い出の地への辛い旅
人生とは何と悲しく、不思議なものなのだろう。
1999年10月8日の早朝、マレーシアから一時帰国した。70歳を過ぎた両親が元気で私の帰りを待っていてくれることの幸せを噛み締めながら成田空港に降り立った私は、入国審査を済ませたあと、急いで公衆電話を探し、心を弾ませてダイヤルを回した。
だが、「ただいま!」という明るい私の声を無情に撥ねつけたのは「・・・幸衛が死んだ・・・」という鉛のような母の声だった。
私は一瞬、頭がくらくらとして、言葉を失った。母の言葉は、私がこれまでの人生で体験した思考、感情、想像の範囲を超えていて、驚きと悲しみは実感がなかった。まるで、突然感覚が麻痺したようだった。
幸衛は8歳年下の私の弟である。商社マンで、家族と共に南アフリカ共和国のヨハネスブルグに駐在していた。現地時間の7日夕刻、ヨハネスブルクより800キロ離れたエリオットという小さな町の近郊で交通事故に遭い、即死に近い状況で息を引き取ったという。
弟はODAの無償資金援助関係の仕事で、関係者と共に現地の病院を視察に行く途中だった。会社の方々と家族が夜が明けるのを待って現場に向かうという話だったが、それ以上のことは分からなかった。
私はすぐに、東京在住のもう一人の弟、武澄と連絡を取り合い、二人で、その日の夕方6時にヨハネスブルグに向けて成田を飛び立った。私にとっては、その朝飛んできた空をまた引き返す旅となった。
アフリカの最南端にある南アフリカ共和国は、実を言うと、二人にとって初めての国ではなかった。30数年前、プレトリア総領事館(当時は国交がなかったので大使館はなかった)に勤務した父親と共に家族で過ごした思い出の地である。
当時、南アはまだ悪名高きアパルトヘイト(人種隔離政策)の国であった。アパルトヘイトの重苦しさに耐えられなかった武澄と私は2年滞在の後、家族と別れ一足先に帰国した。
リュックサック一つで旅立った私たち姉弟は、ヨハネスブルグ空港で白人が全部機内に乗った後、最後にタラップを上り、最後尾の席に着かされた。それが有色人種として味わった最後の屈辱感だった。
帰路、アジアやアフリカに対する理解を深めるようにという父の計らいで、ザンビア、ウガンダ、ケニヤ、エチオピア、エジプト、イラク、イラン、インド、香港、台湾などに立ち寄った。
それは10代の若者にとってかなりの冒険ではあったが、思春期の私達に少なからぬ影響を与えた。
その同じ道を32年後、再び姉と弟が旅することになろうとは、何という運命の不思議なのだろう。しかし、それは今はもう帰らぬ人となった弟を両親に代わって迎えに行く辛い旅であった。
香港経由で、バンコック、インド洋、マダガスカルの上空を飛び、九日の早朝ヨハネスブルグに着いた。
空港には会社の方々に守られて、幸衛の妻佳子さんと一人息子の友衛君が来てくれていた。佳子さんは私達を見るなり、武澄にすがるようにして「お兄様、どうして・・・」と泣き崩れた。
ネクタイにブレザー、ハイソックスという現地校の制服に身を包んだ10歳の友衛君は悲しみをグッと堪えて、母親の傍らで凛々しく立っていた。
その姿が30数年前の弟幸衛の姿とダブり、私は居た堪れなくなって甥友衛を引き寄せ、「サムライの子は強いのよ!とっても強いのよ!」と固く抱きしめた。
私の胸の中で、「はい」というしっかりとした少年の声が返ってきた。 (つづく)