この上もない幸せ

 一日置いて6月6日より、高知工科大学での勤務が始まった。

 朝6時45分に家を出、ちんちん電車に乗ってはりまや橋へ。ゆったりとした気分で7時20分発の「神母木車庫行き」のバスに乗る。

 いげのき、ごめん・・・土地の名前、バス停のベンチで聞く土佐弁の響きは、新鮮でもあり、懐かしくもある。

 「田舎のバス」から眺める土佐の自然が美しい。長岡辺りまで来ると、墨絵のように霞んだ山々を遠景に、車窓いっぱいに田んぼが広がっている。

 青々と生命の漲るその大地の姿に私は甚く感動を覚えた。都会育ちの私にとって、日本人の生命のルーツである、稲の姿に日々接することが出来るのは、この上もなく贅沢なことのように思えた。

 青い田んぼはやがて小麦色に、そして、黄金の稲穂にと成長してゆく。僅か2か月余りの出来事だ。日本の自然の移り変わりの早さを改めて想う。

 実るほど頭のたれる稲穂かな 

 マレー語にもある格言が、ふと浮かぶ。

 その黄金の田んぼが突然、一面黒い土になっていたかと思うと、今度は田んぼに水が張られ、小さな青い苗が行儀よく並んでいる! 

 高知では今も二期作が続いているのかしら。家に帰って興奮して母に尋ねてみたことだった。

 一日の勤務を終え、夕方5時45分のバスで同じ道を帰る。7時。決まったように私は我が家の石畳をコツコツと踏む。母は私の足音を聞いて、飛び出して来る。

「ただいまー」
「おかえりなさーい」 

 まるで芝居の稽古でもしているかのように、私たちはお腹の底から声を出してお互いの存在を確認し合う。それは母にとって、父亡きあと4年以上途絶えていた家族の会話であり、金属疲労気味のキャリアウーマンにとっては長く憧れてきたフツーの生活だ。

 この当たり前のことが、どんなに幸せなことかを確認するために、私達はいくつもの悲しみを経てきたのだった。

 「怪我の功名」とはこのことだと母はいう。実は今年2月、母は背骨が折れて1か月余り入院していた。私の帰郷のきっかけとなったのはこの母の「怪我」だった。
 
 母は今元気になって、娘のために毎日夕食を準備して待っていてくれる。孤食の味気なさ、侘しさを思い知らされて来た二人にとって、共に食事ができることはこの上もなく幸せなことだ。

「いただきます」
「ご馳走様でした」

 マレーシアの大学で日本語を教えた時のことを思い出す。「いただきます」という言葉は英語にもマレー語にも中国語にもなく、「ご飯粒を残すと目がつぶれる」と言っていた祖母の言葉なども引用しながら、時間をかけて「日本文化」の説明をしたことだった。




マレーシアの服を愛する娘、着物を愛する母(高知工科大学入り口にて)