声で結ばれる人たち
●去勢されつつある言葉
いきなり、このような乱暴な言葉を発することをお許しいただきたい。日本を長く離れて、日本語も疎くなり、自分自身の日本語さえあやしくなっている者が、「何を言っているんだ」と一笑に付されてしまうかもしれないが、東南アジアに暮らしていて、ここ数年感じることは、日本語が妙に軟弱になったということである。
世界中の文化や情報が集まり、活字文化も溢れていて、「日本文化」という木は、言の「葉」で豊かに茂っているようなのに、よくよく見ると、その一つひとつの「葉」に生気がない、と思うことがある。
先日、夜中に放映された「コソボ-詩の夕べ」という2時間にわたるテレビ番組を見た。詩人、作家、学者、ジャーナリスト、政治家など各界の人々が集まって、コソボをめぐる詩を朗読した。マレーシア文学の最高峰A.サマッド・サイド氏や、人気ニュースキャスターなども出演して、力を込めて自作の詩を謳い上げた。
私はまず、その参加者の顔ぶれの多彩さに驚いた。コソボは国際政治専門の学者や評論家だけの独壇場ではないのだ。
映像はたくさんの写真をも写し出した。ナシッドというイスラムのポピュラー・ソングも流れた。世界で起きている問題の痛みを「分かち合おう」という試みのように思えた。
残念ながら、私のマレー語は、断片的な理解に留まり、一つひとつの詩が何を訴えていたかはわからなかったが、彼らの個性ある声の、そして言葉の力強さに身震いした。大袈裟に言えば、魂を揺すぶられるような思いだった。それは、センチメンタルな評論顔負けのパワー溢れる「啓蒙」だった。
日本では目という器官による交流が非常に発達している。活字文化は知識の世界、そして、言うなれば、すこぶる知的な活動だ。だが、最近私は口と耳による交流を大切にしている世界があることに気付き始めた。情の世界、心の世界と言ってもよいかもしれない。
声という媒体を通じて伝達された時の言葉の深さ、重さ、そして豊かさ・・・。
例えばイスラームの祈り「アッラーは偉大なり・・・、アッラーのほかに神なし・・・」この言葉をムスリムの人たちは一日に5回以上自ら唱えたり、耳で聞いたりする。長い人生で彼らは、いったい何千、何万回、この同じ言葉を繰り返すことになるのだろう。
しかし、それは、一回たりとも、”同じ”ではないはずだ。 時には恵みや感謝であり、時には絶望からの救いや哀願であったりする。あるいは、何の変哲もない聞き慣れた言葉にしか過ぎない時もあるだろう。言葉は時には天の声であり、美しい音楽でもあるのだ。
「マレーシア的マルチ言語社会」の中で、私はマレーシア人はスピーチ好きだと書いたが、政治家は言うに及ばず、それなりの社会的な地位にある人やその夫人は魅力的なスピーチが出来なければならない。紋切り型の挨拶や知識の伝達を主とする日本の講演とは違う。スピーチは、人の心をつかみ、人を説得できなければならない。
発展途上にあるこの多民族国家は、国民が「何度も、何度も同じことを繰り返し聞かされる」世界である。多様過ぎる世界では、ある程度の「洗脳」を行って、「統一」を図って行く必要があるからだ。
しかし、同じ言葉やスローガンであっても、それは話す人や話される環境によって違った意味合いを持つ。そして、人々は心で聞いて、直感や臭覚で判断する。「こいつの言っていることは、果たしてホンモノかな」と。
総選挙を間近に控え、今、マレーシアでは与野党問わず「Ceramah」(講演会)が花盛りである。スピーチや「Ceramah」はマレーシアの大切な文化の一つだ。マレー人の庶民はクラシックの音楽会や現代美術の展覧会に行く代わりに、モスクで金曜日の礼拝をし、説教を聞き、選挙が近づけば、夜は夕涼みがてらに政治・宗教講演会を聞きに行ったりする。
毎年、盛大な国際コーラン朗読大会も開催される。テレビでも政策立案者や実業家自らによる時事解説やディスカッション、宗教(イスラームに限られるが)講話などが多いように思う。何れも口と耳、そして心や信念の交流である。
力強く、魅力的な声によって表現される言葉は、ばらばらな個を結びつけ、一つの方向へと向かわせる不思議な力を持っている。マレーシアでは声によって連帯感が育まれていく。
21世紀は、インターネットの時代でもあるが、同時に声の文化を再評価すべき時代かもしれない。