運転があまり得意でない私は、町の中心部に行く時、時々タクシーを利用する。ここ数年、公共の交通機関の整備が急ピッチで進んではいるが、基本的にはまだ車社会で、行き先によっては止むを得ずタクシーを使うことになる。
 外国人にとって、タクシーはマレーシア社会の窓であり、庶民との楽しい交流の場でもある。

 クアラルンプールの町を走っているタクシーはすべて、赤と白のツウトーン・カラーの国産車プロトンだ。 手動のドアを開けて行き先を告げ、目的地まで行ってくれるかどうか確認してから車に乗り込む。外見は同じでも車の中の座り心地は実にまちまちである。

 香を漂わせ、飛行機のシートのように行き届いた手入れと心遣いがしてある車があるかと思うと、シートがぼろぼろに破れ、埃だらけのポンコツ車もある。運転手の体臭がプンプンし、飲み水の入った使い古しの大きなペット・ボトルがギアの横にころがっていることもある。ドライバーの「暮らしぶり」が一目瞭然である。

 すぐ気になるのが、運転手の出身である。多民族国家マレーシアらしく、タクシー・ドライバーたちもバラエティーに富んでいて、つい好奇心をかきたてられる。斜め後ろから眺める身体の一部や、フロント・ウィンドーの前にぶら下がっている「大切な」お守り、車の中に飾られている小物などで、「人種」や「宗教」が識別できる。その前にラジオから流れてくる音楽や言葉で分かることもある。タクシーのコンパートメントは、ドライバーたちのそれぞれの文化的聖所とも言える。

 同様に、運転手の方でも乗せているお客のことが気になるらしい。バック・ミラー越しにそれとなくこちらを見ていて、頃合いを見計らって、話しかけてくる。彼らにとって、英語は”No problem”なのだ。こちらがマレー語や中国語を使おうものなら、いたく感激されてしまう。

「お客さんは、なに人ですかねぇ。マレーの服を着ておられるが、お顔はマレー人に見えないし・・・。チャイニーズかなぁ」

 私の場合、大体そんなことで会話が始まる。

「マレーシアは、もうどのくらいですか」と、次の質問。

 続いて 「ご主人は・・・?」 「お子さんは何人?」などと畳み掛けて来る。この国では、独身は珍しく、このような質問は挨拶がわりなのだ。始めの頃は見知らぬ男性から立ち入ったことを聞かれたような気がし、つい自意識過剰になって、相手に邪心があるのではないかなどと疑ったりしたが、今ではすっかり調子を合わせることを覚えた。「子供は、3人」とか「4人」とか適当に答えておく。

 たまに、うっかり「残念なことに、独り者なのよ」と正直に答えてしまうと、相手は慌てて、「そりゃ、大変申し訳ないことを聞いちまったなぁ」と平謝りに謝る。

 こちらも、負けずにいろいろ聞いてみる。

「そちらはお子さんは何人?」
「5人ですわぁ」
「そう、子宝に恵まれてお幸せね」(この魔法の言葉も覚えた)
「いやぁ、そうですかねぇ」と、照れつつもすっかりご機嫌だ。
「ところで、この頃はどう? 商売の方は。去年、おととしは経済危機で大変だったでしょうけど、最近は少しはよくなったかしら」
「そうっすね。大して変わりませんよ。よっぽど働かないとやっていけません。車の借料が40リンギット(約1200円)、ガソリン代が30リンギット(900円)、1日の儲けは30から50リンギットというところですかね。子供が5人おるんで、まだお金が要るんですわぁ。イン・シャー・アッラー(神の意志あらば)。でも、これでもマレーシアはまだ幸せな方ですよ,奥さん。インドネシアやアフリカの国々をごらんなさい・・・。ところで、マレーシアの生活はどうですか、楽しんでおられますか」

 よもやま話をしていると、目的地までの時間はアッという間に過ぎてしまう。会話が楽しかったりすると、別れの一言は「おつりは、要らないから取っておいて」となり、先方からも「奥さん、どうぞ素敵な一日を!」などと気の利いた言葉が返ってくる。

 先日、私のコンピュータの指南役である中国系の青年が香港旅行から帰って来た。会うなり、「僕は香港が嫌いです。やっぱりマレーシアがいい。香港の人は冷たくて、すましている。他人に対して、全く関心がないみたいだ。マレーシアでは、タクシーの運転手とだって、すぐおしゃべりしてしまうのに。ここでは同じ車の中で、お互いにずっと黙り込んでいる、なんてことないですよね」と言っていた。ホント、ホントと思った。

 この南国式一期一会がマレーシアの風景をやさしいものにしている。