アジアからの視点忘れずに

 昨年は年末のお忙しい時に、貴重なお時間を割いて、連載「故郷で世界に生きる」におつき合い下さいまして、誠に有難うございました。

 皆様方の温かいご声援に励まされながら、何とか無事に執筆を終えることができ、今、「お蔭様で」という言葉をしみじみとかみ締めております。

 連載の中で、私は「ただいま」、「お帰りなさい」、「どうぞ宜しくお願い致します」、「いただきます」、「ご馳走さまでした」などの日常的な日本語にスポットを当ててきましたが、最後にもう一つ、この「お蔭様で」という、極めて日本的で、含蓄のある言葉を加えたいと思います。

 さて、私は最終回の原稿を新聞社にお送りした後、12月29日より数日、マレーシアに行っておりました。経由した成田空港は正月を海外で過ごそうとする人々でごった返しており、グローバル化の進展と日本の豊かさを改めて感じました。

 飛行機で約7時間、そこはもう、一日の最低気温が30度も違う熱帯の国です。クアラルンプールのスパン国際空港も、大勢の人々が行き交い、大変賑わっていました。

 この成田空港の10倍の規模を持つスパン空港は黒川紀章が設計したものですが、東南アジアを襲った通貨・経済危機の最中(さなか)の1998年に開港したので、当事その「大きさ」、「立派さ」が国力不相応だという声も聞かれました。「杞憂であってほしい!」と願ったことが懐かしく思い出されました。

 今回の滞在で、強く感じたことはアジアの興隆とともに日本のプレゼンスが相対的に低くなりつつあるということです。

 見聞きした小さな例で言えば、一つは空港での使用言語。私がいた頃は案内に英語やマレー語と並んで、いち早く日本語が使用されたことに驚いたものですが、今回は中国語による案内が加わっただけでなく、構内アナウンスが「日本語」ではなく「中国語」でした。

 また、「日本語能力試験」の受験者が減っており、逆に「中国語」を勉強する人が多くなっているという話も聞きました。韓国製の自動車や家電製品もどんどん増えている様子でした。

 昨年12月にクアラルンプールで「第Ⅰ回東アジアサミット」が開催され、「東アジア共同体」構想が一歩を踏み出したことは皆様方の記憶に新しいと思います。

 この構想は1990年代初めに、マハティール前首相が提唱したものですが、その後紆余曲折がありました。

 当事私はマレーシアでその議論を聞いていたのですが、あの頃であれば、日本がリーダーシップを取るというシナリオもあったかもしれないのに、今や遅し、もうそのチャンスは逸したなあという思いです。

 日本がアジアで兄貴分として存在感(期待感)のあった日本優位の時代は終わって、これからはアジアで政治、経済、教育、文化、あらゆる面で本格的な「競争」の時代が始まることを実感しました。

 マレーシアでは毎日夕方激しいスコールに出会いました。傘が全く役に立たないようなその激しい水しぶきに打たれながら、日マの深い縁(えにし)に思いを馳せ、21世紀はどんな時代になるのだろうと考えました。

 日本に戻って元旦の新聞を見ますと、「超少子化」、「人口減の時代到来」、「家庭崩壊」、「行き過ぎた『個』の尊重」などの言葉が目に留まりました。

 私は亡き父と晩年、マレーシアからの一時帰国の折によく話をしたのですが、大家族や共同体が健在で、社会が生き生きとしているマレーシアの様子を話すと、父は「日本は戦後、人間社会をばらばらにし過ぎたね。社会の最低単位はやっぱり『個』じゃないよ。最低単位は『家族』だろうね」と言っていました。

 この連載を通して、これからの世界や日本を考える上で、「アジアからの視点を忘れないでほしい!」というメッセージをお伝えできたのであれば大変嬉しいことです。

 最後にもう一度お礼を申し上げたいのですが、私は土佐弁の「ありがとう」(「とう」の語尾を強く言う)の響きが大好きです。

 「ありがとう(「とう」にルビをふる)」と申し上げて、お別れしたいと思います。




私をマレーシアで迎え、見送ってくれたランの花は懐かしい思い出の花です。