2017年4月、皇太子殿下(当時)が日本マレーシア外交関係樹立60周年を記念してマレーシアを訪問された。ご滞在中に元南方特別留学生で被爆者の故アブドゥル・ラザク氏の遺族(長男)ズルキフリー元マレーシア科学大学副学長(実質の学長)とも面談された。日マ交流の歴史を知る者にとって大変嬉しいニュースだった。(ラザク氏については「親日家(3)日本語教育のアブドゥラ・ラザク先生(https://ban-mikiko.com/171.html)」ご参照)

 また、皇太子殿下はご訪マに際し、天皇皇后両陛下からマレーカレッジとハフィズ君のエピソードをお聞きになったに違いない。まるで奇跡のような、おとぎ話のような美しい話である。

 長文だが、私の若い友人、ハフィズ君が日本語で寄稿した「天皇皇后両陛下、ありがとう ―マレーカレッジの物語」(国際平和協会季刊誌2007年夏号)を転載する。

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 1991年10月Ⅰ日のクアラカンサー(ペラ州)の天気は晴れていたが、隣のインドネシアの山火事で視界が悪く気温が妙に高かった。その数か月前からわくわくしていた私たちはマレーの民族衣装を着、緊張の中で天皇皇后両陛下のご到着を待っていた。予定では、学校の象徴となっている「ビッグ・ツリー」(Samanea Saman)という大きな熱帯雨林の木の一種)の下に作られた記念碑と生徒によるパレードをご覧なり、そのあと日本政府に寄付していただいたランゲージ・ラボ(L.L.)で日本語の授業のデモンストレーションを見ていただくことになっていた。

 当時15歳だった私はマレーカレッジの3年生で、日本語クラブの部長をつとめていた。日本語が大好きだった私は、その気持ちを両陛下に表現するために「日本語は私の心の真珠です」と習字に書き、L.Lの壁にはった。それと共に鯉のぼり,折り紙、絵など、様々な「日本」をテーマにしたものを他のクラブメンバーと一緒に作った。クラブ活動を見ていただき、日本の雰囲気を生み出すための作業をみんなで楽しみながら準備した。ご来場される時間が過ぎ、「到着時間が遅くなった」と知らせられたとき、私の緊張感は高まった。「早くお会いしたいな」と思いながら、簡単な挨拶文が書いてあった原稿用紙を握り続けていたので、紙が汗で湿ってふにゃふにゃになった。

突然のご訪問中止
 しかし、私の数か月前からの楽しみは「両陛下のご訪問は中止となった」という知らせで、水泡のようにはかなく消えてしまった。悪夢を見たようなその瞬間、「私は頭が真っ白になり、暫く息が止まったような感じがした。心が稲妻に打たれたように、体中から力が抜けてしまった。

 日本が大好きだった私にとっては日本を代表する両陛下に会えることは、まるで天から降りてくる天使との対面のようだ。ショックを受け、悲しみのどん底に落ちてしまい、しばらくしたら思わず涙が流れた。空を眺めて見たら山火事で発生した霧が厚くなってきたことがわかった。その夜は涙が涸れるまで泣いた。私は記念碑のところへ行き「日本人は約束を守るから両陛下はいつかきっとマレーカレッジに来られる」と心に信じ、両陛下に自分の気持ちを伝えるために手紙を書くことに決めた。

 日本のことが大好きで、両陛下のご訪問の中止でそれほど落胆した私には、実はいくつかのエピソードがあった。父親は1932年生まれで、戦争時代に日本軍が建てた小学校に入学した。父親は日本人による教育を受け、自分の体験を幼い私によく話してくれた。日本人の先生にもらった砂糖、お菓子とあめ、毎朝笑いながらやっていた体操、日本の昔話を聞かされたこと、日本の民謡を習っていたことなど、父親がもっている「日本人の優しい心」というイメージは未だ変わっていない。勿論私にも「君が代」、「桃太郎」、「おててつないで」、「あいうえお」などの歌を小さい時に教えてくれた。

 父親は音楽が好きで、車の中で箏などの日本の伝統音楽をよくかけ、その美しい音が私の心にもなじんできた。そして、2年前96歳で亡くなった祖父は珍しく戦争時代の苦しい話を私には一回も口にせず、日本人の強い精神と愛国心、きちんとした態度、友情を大事にする(当時仲のいいワタナベさん、ヨコヤマさんとヤマモトさんという友人がいたらしい)、という話を何度も繰り返した。残念ながら「日本へ行ってみたい」という祖父の夢は一度も実現することがなかった。マレー半島北部にあるプルリス州においてこのような環境で育ってきた私に日本に対するイメージはポジティブなもの以外なかった。

 1986年日本だけでなく世界的にも人気が高かったNHKのテレビ小説「おしん」がマレーシア全国で話題となった。小学4年生だった私まで「おしん」の強い精神と美しい心に魅かれ、多くの「おしんファン」の一人となってしまった。「おしん」のお蔭で日本に対する興味が更に深くなり、1989年にマレーカレッジに入学したとき、迷わず日本語を第二外国語として選択した(当時中高等学校レベルで日本語の教育がある学校は6校しかなく、マレーカレッジの場合は日本語の他に、アラビア語とフランス語が選択必修の科目となっていた)。

 当時の日本語の教師は日本から来た青年海外協力隊員の方々で、一日目の授業を受けたとき、父親と祖父が語ってくれた「日本人の優しい心」を実際に味わうことができた。1991年に訪れる予定だった両陛下に会えなかった私は心では「マレーシアで会えなければ自分が日本へ行くしかない」と思い、必死に日本語を勉強し日本への留学を決心した。マレーカレッジにおいて、1週間120分のペースで合計5年間日本語の教育を受け、1991年(両陛下のご訪問が中止となった1か月後)と1993年にマレーシアの代表として選ばれ、日本への「ジュニア大使」のプログラムに参加する機会も与えられた。
                                  
奨学金で日本留学
 1993年にマレーカレッジを無事卒業した。国家試験も無事受かり、日本へ留学する夢を実現させるためにマレーシア政府東方政策奨学金プログラムに応募した。幸いにも色々な人の応援を得て、奨学金を手に入れることができた。

 その後日本の文部省試験にも受かり、筑波大学に入学し、国際関係を専攻した。日本の大学で勉強することは勿論、その他にもう一つ貴重な体験をすることができた。。それは幼い頃から憧れ続けた「箏」を学ぶ機会だった。大学の勉強と共に「箏」のように美しく、品のある日本文化に触れることができ、とても幸せな4年間の学生生活だった。

 大学を卒業し東京の金融機関に就職し、それまで味わったことのなかった、本当の社会の厳しさを体験することができた。当時は不景気で、仕事が見つからない人が多くいる中で日本の一流会社に勤める機会を与えられた私は非常に幸運だった。学生時代と違い、社会人としての東京での生活は私の人生の中でもかなり大きなチャレンジだった。ある意味では本当の「日本人社会」で仕事をさせていただき、一般社会と接する機会もたくさんあり、とても貴重な「社会人デビュー」だった。多忙な毎日を過ごしていたが、大好きな箏の稽古は続けていた。

 2年ぐらい日本企業に勤め、マレーシア政府に帰国報告(東方政策の国費留学生だったので「帰国報告」という決まりがあった)をするとき、東方政策事務所に空きがあるけど興味ない?と人事院の職員に聞かれた。面接を受けてみたら契約職員として採用された。

 学生のときからマハティール元首相が考え出した「東方政策」に興味があり、その事務所の「日本デスク」を担当することになりとても嬉しく思った。日本とマレーシアの懸け橋になれる仕事をずっと前から願っていたが、2年が経ちマハティールさんがいきなり「引退」を発表され、私の心も揺れた。「東方政策の将来はどうなるの?」という大きな疑問が頭から離れず、他の道で両国の懸け橋になれるような仕事を考え始めた。幸いにも国際交流基金日本文化センターに声をかけられ、マハティールさんが引退されたその数か月後、私は国際交流基金に勤め始めた。

実現した15年前の約束
 ある日同僚との食事会で「天皇皇后両陛下がマレーシアをまた訪問する」という話を聞かされたとき、私はドキッとした。「マレーカレッジにも来ていただきたい」と祈り始めた。数日後、昔お世話になったマレーカレッジの先生から電話がかかってきた。両陛下のマレーカレッジ訪問の決定を伝えられ「せっかくだから、天皇皇后両陛下に学校を案内してもらえませんか」と聞かれたとき迷わず引き受けた。仕事帰りの運転中に思わず涙を流してしまった。

 15年が経ち、もう30歳になってしまったが、私の天皇皇后両陛下に「お会いしたい」という気持ちはちっとも変っていないことに気付いた。一説によれば私が15年前に書いた手紙が実際に両陛下の目に触れるところとなり、それが今回の異例とも言えるマレーシアお立ち寄りを両陛下が希望された理由の一つになっているのではないか、という話もあった。でも、私にとってはその手紙が届いているかどうかは別として、両陛下が15年間の長い間私たちの愛おしい母校を覚えていてくださったことは何よりも光栄なことだった。

 OBになった私は15年前、一緒に準備した同級生のアズルール君と二人で、学校を手伝うことを決めた。両陛下のその大切なお気持ちを後輩たちにも大事にしてもらうために、ご訪問当日のプログラムを提案し、「ザピン」というマレー舞踊と、日本でもよく踊られる「そうらん節」を披露することが決まった。私は「天皇皇后両陛下に楽しんでいただくためには何でもやる」という気持ちで両陛下訪問までの一ヵ月半、休みごとに片道4時間車を飛ばしマレーカレッジに通い、先生方、後輩たちと共に受入れ準備をした。

 2006年6月10日の朝、聖地メッカに向かい「天気がこのままよくなりますように」とお祈りした。両陛下が到着する6時間前から学校にいた私は緊張しながら最終準備をした。午後3時25分に天皇皇后両陛下が乗っていた車が学校の門に着いたとき「神様、ありがとう!」と私は心の中で叫んだ。予定通り、15年前に建てられた記念碑をご覧になり、私が案内させていただくことになった資料館い向かった。ゲストブックにサインされてから、後輩たちが一生懸命に踊る「ザピン」と「そうらん節」をご覧になった。演奏が終わると両陛下は立ち上がり、生徒たちに向かい一人一人に丁寧に握手しながら話をされた。

 生徒たちとの交流の後、資料館の案内の前に私は天皇陛下に自己紹介をした。そして天皇陛下が少し離れた皇后陛下を呼んで「この方は15年前ここにいらっしゃいました」と、皇后陛下に私のことを紹介してくださった。全く予想もしなかった感動的な出来事だった。それを聞いた皇后陛下は「15年前のこと、大変失礼しました」と謝り、私は思わずボアッ~と涙を流してしまった。「15年間待ち、やっとお目にかかることができ、もうこれ以上の喜びはありません。私たちのことを15年間覚えていてくださってありがとうございました」と皇后陛下に挨拶をした。感動と喜びの涙が止まらなかった。

 そして、学校が15年間も大事にしてくれた「日本語は私の心の真珠です」の習字、マレーカレッジで使っていた教科書、後輩たちが心を込めて折った千羽鶴などを案内しながら、日本に対する私の感謝と愛情の気持ちを伝えることができた。日本文化に対する愛情を表現するために10年かけ日本で習った「箏」の話もできた。箏を弾いた時の写真を両陛下にご覧になっていただき、いつか機会があれば「天皇皇后両陛下の前で弾かせていただきたい」という気持ちも両陛下に伝えた。

 日本を代表する天皇皇后両陛下と会い、日本に対する愛情と感謝の気持ちが伝えられたことは夢のような出来事で、なかなか実感できなかった。私はただ胸がいっぱいで「今死んでもいい」と思った。両陛下の優しい瞳と笑顔は一番印象的だった。

 「日本」との出会いは私の人生を大きく変え、お蔭で日本の美しい考え方、文化、技術、価値観などを心の中に取り入れることができた。そう、そう、「日本語は私の心の真珠です」というフレーズの意味を疑問に思う人もいるだろう。私にとっては「心」というのは人間の一番大切なところであり、その大切なところに更に貴重な「真珠」があると思う。15年前は私にとって、その「真珠」とは「日本語」だったが、今の私には「日本」そのものが私の心の真珠である。天皇皇后両陛下、ありがとうございました。今後とも日本のことを愛し続け、両国の懸け橋になれるように、自分なりに頑張りますので、よろしくお願い致します。

(ムハマド・ハフィズ・ビン・オスマンさんは現在JICAマレーシア事務所に勤務)