ある年、中国系の学生たちが主催するチャイニーズ・ニューイアの行事に参加したことがある。演目の合間に仮装した学生たちがアンパオを配って回った。アンパオとは「紅包」と書き、赤い小さな袋に入ったお年玉のことである。通常2リンギット(約60円)入っているが、10リンギットや20リンギット、いや100リンギットのアンパオだってある。さて、私がもらったアンパオは? ワクワクして開けてみると、中から出てきたのはなんと「忍」と筆で書かれたお守りのようなカードだった!
 そうだったのか。マレー語でよく聞く“sabar”(辛抱、我慢)という言葉は中国系の人々にとっても大事な価値だったんだ。「マレーシア円満の秘訣はこれだったのか。これでなぞが解けたぞ」―そんな気がして、新年早々有難いアンパオをもらったものだと思った。
 1997年9月、マレーシアは大変なヘイズ(煙霧)に見舞われた。それまでにも季節によって時々空にスモッグのようなもおがたち込め、視界が悪くなることがあったが、こんな恐ろしい現象は初めてだった。インドネシアの野焼きや山火事の煙が季節風に乗って押し寄せ、マレーシアの空を真っ暗にした。太陽が何日も遮断され、昼間も車のライトをつけなければならぬほど。咳や息苦しさ、目の痛みを訴える者も出、クアラルンプールでは住民は外出時にマスクをするようになった。ちょうど経済危機と重なって、マレー人の中には「これは神のたたり、欲望の赴くまま自然を破壊し続ける傲慢な人間への罰だ」と本気で終末を信じる者も出たくらいである。
 世界的なエルニーニョ現象の影響もあり、インドネシアでは乾き切った大地の下で眠っていた泥炭や腐葉土が燃え始め、火の海は広がるばかりであった。いろいろな緊急対策がとられたが、文字どおり「焼け石に水」という感じだった。欧米人、そして日本人は次々と国外に脱出し始めた。
 だが、マレーシア人は自分の国から逃げ出すわけにはいかない。隣国からもたらされた災難にじっと耐えるしかなかった。この時ほど、この地域が運命共同体であることを強く感じたことはない。そしてその「宿命」にじっと耐えるマレーシア人の姿は印象的だった。
 翌年、今度は日照りが続き、酷暑と水不足に襲われた。我が家は断水を免れたが、場所いよっては何日も、何週間も水が出ず、配水車に頼って生活することを強いられた人々もいた。普段は一日に何回もシャワーを浴びる人たちが何日間もシャワーを浴びることができなかったのだが、みな淡々と仕事や勉強を続けていた。彼らの忍耐力には脱帽した。
 この二つの事件は特に印象に残っていることであるが、マレーシアではその他、日々の生活の中で「我慢」を強いられることが日本に比べて多い。停電、電話やトイレの故障、手続きの遅延、約束の不確かさ、不衛生などなど。また「待つこと」は生活の一部となっている。民族間で「我慢」し合わなければならないことも少なくない。
 “Sabarlah!”(辛抱なさいよ)という言葉はマレーシアで生き抜くための知恵である。