アフリカの果てに散った、ある企業戦士(2)--言えなかった I am not a Chinese
東京からヨハネスブルグまでの飛行(香港での乗り換え待ち合わせ時間を除き18時間)は、長くもあり、短くも感じられた。弟の死がまだ「現実」となっていなかった私たちは、時々そのことを忘れたかのように、いろいろな思い出話をした。30年前の南アの情景が、走馬燈のように次から次へと浮かんできた。
当時は町の至るところで「European Only」という文字が目についた。トイレやエレベーター、郵便局などの入口もみな「European」と「Non-European」に分かれており、黒人たちは、住み込みの使用人を除いて、町の中心部に住む事を許されず、ロケーションと呼ばれる特別居住区に押し込められていた。白人と黒人の異性が一対一で部屋にいるところを見つかれば、即座に「背徳法」で捕まるような世界であった。
日本人は「名誉白人」と呼ばれ、慣習的には「European」の仲間として扱われていたので、黒人や他の有色人種に対するような差別は受けなかったものの、皆無ということではなく、公立の学校に入れなかったり、レストランでじろじろと冷たい目で見られたり、地方のガソリン・スタンドでトイレの使用を断られたり、うぶな心を傷つけられる事も少なくなかった。
当時、在留邦人は多くはなかったけれど、大半の人は「名誉白人」としての地位と優雅な生活に胡座をかき、社会正義について考える人は少なかった。私たちはそのことをとても残念に感じていた。 ある日、ロンドンから朝日新聞の記者が南アに来られた。そして、次のようなエピソードを語ってくれた。
ヨハネスブルグで、あるレストランに入ろうとしたが、「European only!」と言って断られた。「I am a Japanese」と言えば多分入れてくれただろう。それは簡単なことだった。しかし、有色人種の顔をしていながら、そのようなことを言えば「I am not a Chinese」「I am not an Asian」と言うに等しい。自分にはどうしても、そのようなことは言えず、複雑な思いでその場を立ち去った…。
この時の言葉は水が砂漠の砂にしみ込むように、私たちの良心を潤し、アジア人としての「目覚め」を促した。現在の私のマレーシアに対する人一倍の愛情や関心も、本を正せばこの南アでの経験に端を発している。マレーシアと南アは私の心の中で深く結びついているのだ。
あの頃から30年あまりの歳月が流れた。その間、南アには「奇跡」が起きていた。1991年にアパルトヘイトが廃止されたのである!言うなれば、無血革命だ。1994年、全人種による総選挙が実施され、ネルソン・マンデラ氏が大統領に就任した。マンデラ氏は、黒人にも白人にも愛された魅力ある指導者だったという。
折も折なので、市内見学や散策をする時間や心の余裕はないと知りつつも、私たちの新生南アに対する期待と不安は密かに膨らむのだった。
ヨハネスブルグ空港での、幸衛の家族との辛い再会を終えて、私たちは車で空港から幸衛の自宅へと向かった。南半球にある南アは、春だというのに緑が少なく、高速道路の両側に広がるカルーと呼ばれる乾燥丘陵は、緑が溢れる湿潤な東南アジアに比べれば、砂漠に近い風土だった。からからに乾いたユーカリの木がすらっと天に向かって伸びていた。(続)