空港から30分ぐらいで幸衛の家に着いた。広々とした丘を見下ろすリビングルームのテーブルの上には、紫色の風呂敷が敷いてあり、その上に幸衛のスナップ写真数葉と彼が好きだったウィスキーが置かれてあった。誰かが届けてくれたのだろう、神道の我が家に線香と数珠も用意されていた。
 支店長夫人から届けられた手づくりの幕の内弁当を食べながら、会社の方々との打ち合わせが始まった。アフリカの最果ての地で起きた今回の突然の事故の処理には、多くの下調べや判断が必要だった。武澄が親代わりとなって、佳子さんをサポートしながら一つ一つ話を進めていった。

 ロンドンからは政岡欧州・アフリカ総支配人も飛来され、勝田支店長はじめ日商岩井ヨハネスブルグ支店のメンバーが総がかりで、誠心誠意対応に当たってくださった。

 その夜、8時すぎ、幸衛はオークの大きな棺に入って無言の帰宅をした。ご夫人方の協力を得て、百合や菊などたくさんの白い花も一緒に届けられた。

 神職も僧職もいない地で、武澄が弟の霊前に別れの言葉をかけると、妻佳子さん、息子友衛君もそれに続いた。10歳の友衛君は、「パパ、今までありがとう。いろいろなことを教えてくれてありがとう。3人で旅行に行った時は楽しかったね。ママと二人で何とか頑張るから、パパも天国でいっぱい友だちをつくってね。ちゃんとママとぼくを見守って下さい」と立派にあいさつをし、皆の涙を誘った。

 会社の仲間の方々も思い思いに幸衛に語りかけてくれた。小さい子供のころのイメージが強く、最近の弟をよく知らなかった私にとって、それは目の前で弟の自画像が描かれていくのを見るような思いだった。

 後で日本に帰って小網神社の服部神官より説明を受けたことであるが、「通夜」というのは元々神道の習わしで、夜を通して霊との別れを惜しむ意味があるそうだ。その夜の通夜は「形式」には外れていたかも知れないが、本来の目的にはかなったものだったように思う。

 翌日会社のメンバー全員が家族連れで幸衛に別れを告げに来てくれた。海外にいると、家族の絆が深まると言われるが、治安が悪化している南アでは一層家庭内の結びつき、協力は大切なことで、みなさん、「日本を遠く離れた異国の地での夫、父親の不慮の事故による死は人ごととは思えない」と言うような悲痛な面持ちで線香をあげてくださった。

 事故があった時、助手席に座っていて死亡した医療関係コンサルティング会社の方の上司も弔問に来てくださった。白人系南ア人だった。手に持った花かごには白い花に混じって真っ赤な薔薇があしらってあった。

 見慣れぬ日本人の風景に少し戸惑った様子だったので、近づいて言葉をかけた。
 「お国ではこのような習慣はないのでしょうね。日本人は、遺体にまだ魂が宿っているような気がして、こうして心ゆくばかり別れを惜しみ、故人を偲ぶのです・・・」

 その方は「・・・ It’s a beautiful culture! 」と心から感動した様子だった。そして続けた。 「我々キリスト教徒は、人間が息を引き取ると同時に魂は神に召されると信じるのです。ですから、遺体にはもう魂はないと考えるのです」

 マレーシアのイスラーム教徒が、「人は死んだ瞬間アッラーに召されるのだから、遺体はなるべく早く埋葬して、魂を鎮めてあげなければならない」と言っていたのを思い出した。もし、我が家がイスラーム教徒であれば、幸衛はすぐにでもこの地に埋葬されたであろうと思うと辛かった。荼毘に伏して遺骨を連れて帰れる幸せを思った。

 幸衛は自宅で三晩、家族とともに食事をし、一緒に寝て、12日の朝、葬儀場へ運ばれて行った。雲一つない真っ青な空で、天穹という言葉がぴったりの美しい別れの朝だった。

 カトリックの神父によるミサは午後2時から行われた。在留邦人、現地の方々、友衛の同級生ら100人余りが見送ってくださった。

 美しい讃美歌の独唱を聞いた時、私は「幸衛は天にのぼった」と信じることができた。キリスト教で送られることへの抵抗感はなかった。むしろこのようにあらゆる宗教で見送られる幸衛は「国際人」だとさえ思った。ヨハネスブルグに向かう飛行機の中で、心を静めるため、覚えていたコーランの一節を繰り返し唱えていたことも思い出された。

 私は、この、自分の中に無意識に潜んでいた汎神論的な感覚、宗教的大らかさに我ながら驚いた。そして、遠藤周作の「深い河」を思い出すのだった。(続)