翌日、佳子さんと友衛君には申し訳なかったが、一日だけ時間をもらってプレトリアを訪れた。遠縁にあたる畠中大使が車を出して下さり、午前中は大使夫人にもお付き合いいただいた。ヨハネスブルグから首都プレトリアまでは高速道路を使えば3、40分だが、私達はわざわざ旧道を通ってもらった。
 まず、昔住んでいたWaterkloofという高級住宅街をドライブし、その後、武澄と私のそれぞれの母校を訪ねた。

 丘の上にあるWaterkloofは昔のままの美しさをとどめ、私達が住んでいた家や通りもすぐに見つけることができた。季節には少し早かったが、そのあたりだけはなぜか、ジャカランダが満開だった。ジャカランダは南アメリカ産の街路樹で、ちょうど日本の桜のような花である。季節になると、一ヵ月ぐらい町中が淡い紫色に染まり、夢のような美しさとなる。

 芝生に落ちた花びらを拾ってよく見ると、つりがね草のような形をしていた。私は桜をこよなく愛する日本人の一人であるが、このジャカランダもまた、美しさと悲しみを秘めた花として、一生慈しむことになるだろう。幻想の桜とジャカランダが入り乱れて、目の前でハラハラと風に散っていった・・・。すべては、夢のよう・・・、幻のよう・・・。

 120年の歴史を有する母校St Mary’s Diocesan School for Girlsも昔のままだった。正門あたりは少し変わっていたが、赤い煉瓦造りの校舎も、つたが絡まるチャペルも30数年前の面影をそのまま残していた。水色のワンピースにベージュのセーターやブレザーの制服も変わっていなかった。

 だが、それを着ている女子学生の肌の色は違っていた!白人に混じって、黒人やインド人の顔を見た時、私は「アパルトヘイトの終焉」を強く実感した。そして、例えどんな苦難に直面しようとも、この国もまた「希望」に向かっての第一歩を踏み出したのだ、と確信した。

 町を見下ろす大使公邸で昼食をいただいた後、午後はダウンタウンへ行った。治安が悪いので、町をぶらぶらするのは危険だと、散々聞かされていたが、新聞記者である武澄は庶民の素顔が見たくてむずむずしていた。昔総領事館があったチャーチ・スクエアにたどり着くと、「ここならいいでしょう。でも、私がお伴します」と、やっとドライバーのお許しが出た。彼は携帯電話を車のトランクにしまって、私達のボディー・ガードとしてついてきてくれた。

 3、40分、恐る恐る町を歩いた。でも、私達は半信半疑だった。本当にそんなに怖いのだろうか、と。 しかし、万が一のことがあって、これ以上会社の方々に迷惑をかけてはならないと、私達は慎重な行動をとらざるを得なかった。

 あるデパートを通り抜けた時、私達の黒人のボディー・ガードに向かって、白人の店員が「May I help you」と声をかけてきた。30年前には信じられないことで、私はこの時にも小さな「希望」の灯かりを見出した思いだった。

 夕方、日商岩井のオフィスに寄った。ゆりの花が飾られた幸衛の机や周りはきちんとよく整理されていた。弟は意外に几帳面だったようだ。

 会社の仲間数名が、「伴さんとよく飲んだところを、是非お兄さんたちにも見てもらいたい」とローズバンク・ホテルのバーへ連れて行ってくれた。そこでもまた、幸衛のことや商社マンの苦労を知ることになった。そして、自分の弟が、両親や兄弟の知らぬところで、いつの間にか大きく成長していたことを知ったのだった。

 話はマレーシアのことにも及んだ。ある方が「・・・だから、南アはマレーシアを向いているんですね」と言ってくれた時は我がことのように嬉しかった。  私のクアラルンプールの家の書斎に、マハティール首相が1997年5月にネルソン・マンデラ前大統領より「The Order of Good Hope:Class1」」を授与された時の大きな新聞記事が今も張ってあることを思い浮べた。(続)