アフリカの果てに散った、ある企業戦士(1)--・・・幸衛が死んだ・・・
人生とは何と悲しく,不思議なものなのだろう。
10月8日の早朝、久しぶりに日本の地を踏んだ。70歳を過ぎた両親が、元気で私の帰りを待っていてくれることの幸せをかみしめながら成田空港に降り立った私は、入国審査を済ませた後、急いで公衆電話を探し、心を弾ませてダイヤルを回した。
だが、「ただいま!」という明るい私の声を無情にはねつけたのは、「・・・幸衛が死んだ・・・」という鉛のような母の声だった。私は一瞬、頭がくらくらとして、言葉を失った。暖かい国の者には零下20度の寒さが、すぐには感じ取れないのと同じように、母の言葉は,私がこれまでの人生で体験した思考,感情、想像の範囲を越えていて、驚きと悲しみは実感がなかった。まるで,突然感覚が麻痺したようだった。
幸衛は、8歳年下の私の弟である。商社マンで、妻と一人息子と共に南アフリカ共和国のヨハネスブルグに駐在していた。現地時間の7日夕刻(日本時間8日未明、日本との時差は7時間)、ヨハネスブルグより800キロ離れた,エリオットという小さな町の近郊で交通事故に遭い、即死に近い状態で息を引き取ったという。
弟はODAの無償資金援助関係の仕事で、南ア人、日本人の関係者3人と共に現地の病院を視察に行く途中であった。ヨハネスブルグ支社の方々と家族が、夜が明けるのを待って現場に向かうという話であったが、それ以上詳しいことはわからなかった。
私はすぐに、東京在住のもう一人の弟、武澄と連絡を取り合い、出来るだけ早く二人で現地へ行こうと決めた。幸い本社の方々の迅速且つ親身なご配慮に助けられ、私達二人はその日の夕方6時にヨハネスブルグに向けて成田を飛び立っていた。私にとっては、その朝飛んで来た空をまた引き返す旅となった。
アフリカの最南端にある南アフリカ共和国は、実をいうと、私たちにとって初めての国ではなかった。30数年前、プレトリア総領事館(当時はまだ国交がなかったので、大使館はなかった)に勤務した父親とともに家族で過ごした思い出の地である。当時、南アはまだ悪名高きアパルトヘイト(人種隔離政策)の国であった。アパルトヘイトの重苦しさに耐えられなかった武澄と私は2年滞在の後、家族と別れ,一足先に帰国した。
リュックサック一つで旅立った私たち姉弟は、ヨハネスブルグ空港で白人が全部機内に乗った後、最後にタラップを登り、最後尾の席につかされた。それが有色人種として味わった最後の屈辱感であった。帰路、アジアやアフリカに対する理解を深めるようにという父の計らいで、ザンビア、ウガンダ、ケニヤ、エチオピア、エジプト(カイロ,ルクソール)、イラク,イラン、インド(ニューデリー)、香港、台湾などに立ち寄った。それは、10代の若者にとって、かなりの冒険ではあったが、思春期の私たちに少なからぬ影響を与えた。
その同じ道を32年後、再び姉と弟が旅することになろうとは何という運命の不思議さなのだろう。しかし、それは、今はもう帰らぬ人となった弟を両親に代わって迎えに行くつらい旅であった。
香港経由で、バンコック、インド洋、マダガスカルの上空を飛び、9日の朝6時半にヨハネスブルグに着いた。空港は世界中どこでも同じようにあらゆる人種の人々がいるが、ガウンのような民族衣装を着たナイジェリア人のグループや、珍しいヘアスタイルの黒人女性たちを見かけると、ここがアフリカ大陸であることが実感できた。久しぶりに見る黒人の世界は懐かしかった。
空港には会社の方々に守られて、幸衛の妻佳子さんと息子の友衛君が来てくれていた。
佳子さんは私たちを見るなり、武澄にすがるようにして「お兄様、どうして一番若い幸衛さんが・・・」と泣き崩れた。ネクタイにブレザー、ハイソックスという現地校の制服に身を包んだ10歳の友衛君は悲しみをグッとこらえて、母親の傍らで凛々しく立っていた。その姿が30数年前の弟幸衛の姿とだぶり、私は居た堪れなくなって甥友衛を引き寄せ、「日本の男の子は強いのよ!とっても強いのよ!」と固く抱きしめた。私の胸の中で、「はい」というしっかりとした少年の声が返ってきた。(続)