炎天下の日本語学習
私が勤めているマレーシア国民大学は、1970年に創立された国立大学で、首都クアラルンプールの南、約40キロ離れたバンギという町にある。広々とした土地に緑が豊かな美しいキャンパスが広がっている。
しかし、これは車やバイクで移動する者の感想であって、学内を徒歩で、しかも灼熱の太陽の下、校舎と校舎、あるいは食堂や寮の間を移動しなければならない多くの学生にとっては、美しいとばかりは言っていられない環境だ。
日中の太陽はじりじりと肌を刺し、炎天下に車を止めておくと、30分ぐらいでハンドルは火傷をしそうなほど、熱くなっている。やはりここは赤道に近いのだ。
言語学部は、本校舎とは歩いて30分位の距離にあり、学生たちの中には往復一時間もかかって、私の授業を受けに来る者もいる。頭の下がる思いである。
ある時、校内を車で走っていると、バス停の前で教え子のタンさんが気まぐれな学内巡回バスを待っていた。私が手招きすると、嬉しそうに飛んできて、助手席に座った。彼女は襟元が型崩れしている洗い晒しのTシャツを着て、ジーンズをはいていた。もちろん化粧はしていない。
私は教室までの十数分間、一寸を惜しんで会話の練習を課した。
「もう昼ご飯を食べましたか」
「はい、食べました」
「何を食べましたか」
「マギー・ミーを食べました」(マギー・ミーは一袋約20円のインスタント・ラーメン)
「マギー・ミーが好きですか」
「いいえ、あまり好き・・では・・ありません。でも、お金・・がありませんから・・・」
「あなたのうちはどこですか」
「うちは、クアンタン(東海岸の町)です。うみ、きれいです」
矢継ぎ早に初級の文型で問いかけると、たどたどしい返事が返ってきた。少し緊張した様子だった。
クラスの中でも出来る方の子ではなく、目立たない存在だったので、こうして一対一で触れ合う機会を持てたことは嬉しく、マレーシアの風土の中で育った中国人というのはこんな感じなのだろうかと、そのアクのなさ、素朴さが印象に残った。
学期末試験が終わって数日たったある日、彼女がふらっと研究室に現れ、数ページの挿し絵入りのエッセーを置いていった。彼女はまだ100時間足らずしか日本語を勉強していない。500字に満たない文章の概略はこんなふうである。
アブさんという新しい友達が出来た。毎週電話をかける。私はアブさんが好き。毎日が楽しい。
先週アブさんとプトラ駅で会う約束をした。3時間待った。でも、アブさんは来なかった。とても悲しかった。寮へ帰って、ビールを3本飲んだ。飲み物の中でビールが一番まずい。
次の朝、頭がとても痛かった。熱もあった。友達の車で病院へ行った。薬をもらった。薬はビールよりまずかった。もう、ビールは飲まない。
アブさんに会いたくない。プラウ・レダンへ遊びに行った。美しい島だ。きれいな海。色とりどりの魚。海で泳いだり、浜辺で遊んだりした。とても楽しかった。いい休みだった。
来週大学に帰る。そして、一生懸命勉強する。
話はこれだけだが、行間や、椰子の木、熱帯魚の挿し絵にはマレーシアのアンギン(そよ風)が吹いていた。マレーシアの社会や文化も反映されている。
例えば、恋人のアブさんはマレー系である。マレーシアは多民族国家であるが中国系とマレー系のカップルを見かけることは珍しい。にもかかわらず、彼女は敢えて(と私は言いたい)「アブさん」とした。
プトラ駅というのは、最近クアラルンプール市内と近郊の間を走り始めたコミューターの駅である。そこで、恋人を3時間も待ったという。いかにものんびりしていて、マレーシアらしい。
失恋をして飲んだビールが飲み物の中で一番まずいという彼女。イスラーム教徒のマレー系はもちろん、中国系の若者を含め、この国の人たちは日本人のようにアルコールを飲まない。
気晴らしに訪れたプラウ・レダンは美しい東海岸沖の島で、外国からもダイバーたちが集まるところだ。しかし、彼女にとっては、リゾートでもなんでもなく、遊び慣れた故郷の原風景なのかもしれない。
次の学期、彼女のエッセーに少し手を加えて、副教材に使った。タンさんはもう私のクラスにいなかったが、ばったり会った時、その話をし、コピーをあげた。すると、彼女は今まで見たこともないような表情豊かな笑みを浮かべ、「先生、アリガト!!」と言い残して炎天下のキャンパスの中に消えて行った。
マレーシアの風土やこの地で暮らす人々の感情に合った教科書があったら、教える方も学ぶ方も何倍も楽しいだろうになあ。そして、タンさんにとって、日本語の学習とは何だったんだろう。青空を流れる純白の雲を見上げ、ふとそんなことを考えながら、次の授業へと急いだ。