7月初旬のある夜、新しく完成したばかりの国立劇場へ行った。こけら落としは9月に予定されているのだが、それに先立って、初めての公演がマレーシア国立交響楽団を迎えて行われたのだ。仕事を終えて一旦帰宅し、シャワーを浴びてから、7時半頃でかけた。

 新国立劇場は、同時期に建設を始め、昨年末一足先にオープンした国立美術館と隣合わせにあり、マレーの伝統的建築様式を取り入れた、威風堂々とした建物である。コバルト・ブルーの傾斜の急な屋根を幾重にも持つ、この文化の殿堂は、やしの木に囲まれ、熱帯の夜空の中でライト・アップされて一際美しかった。

 総経費2億6百万リンギット(約60億円)、1500人を収容する大劇場だ。入り口のロビー・ホールや建物の周りの庭園はスペースを贅沢に使ってあり、東京の国立劇場が貧弱に感じられた。

 以前、文化交流の仕事をしていた者として、またこの国の発展を見守る一外国人として、この国立劇場の誕生を祝福したいと思って出かけたのだが、もう一つ楽しみにしていたことは、かって国際交流基金がその旗上げに協力した国立交響楽団が劇場の初舞台を飾るということであった。

 チケットは30リンギットと20リンギットの2種類があった。席はまだ十分にある。座席表に朱を入れる劇場係りの人の顔は紅潮していたが、所作の方はまだもたついていた。私は安い方の席を選んでマークしてもらい、日本円にして600円を払った。係りが席に案内してくれた。

 劇場内をぐるっとひとわたり見渡した後、プログラムに目をやると、当日の指揮者がマレー人であること、しかもその人は6年前の旗揚げ公演でコンサート・マスターを務めた人物であることを知った。嬉しさに胸が高鳴った。

 予定の時間を10分ぐらい過ぎて、8時半すぎに開演となった。第一部のオーボエと弦楽器の演奏を聞いていると、6年前の思い出が走馬灯のようにかけめぐった。

 1993年8月28日、独立記念日の行事の一環としてマレーシア国立交響楽団の旗揚げ公演が2000人以上を収容するプトラ・ワールド・センターの多目的大ホールで行われた。同オーケストラの立ち上げ及び旗揚げ公演に国際交流基金の協力が求められ、日本側が指揮者を含め数名の音楽家を2度にわたり派遣した。私はその時、出先機関の職員として彼らの受け入れにあたったのだった。

 連日夜遅くまで、クーラーのない練習場で稽古が続いた。稽古の後の打ち合わせが夜中までかかったこともあった。マレーシア側の組織がまだ固まっていないところへ外国人が「指導」に入ったのだから、行き違いや混乱があったとしても不思議ではない。 マレーシア側と日本側の間に入って、調整に苦慮したこともあった。しかし、私には「異文化理解最前線」 と言う気負いもあって、苦にならなかった。

 旗揚げ公演が近づくに連れ、日本側は焦った。「協力する以上はきちんとやりたい」と言うのが日本側の立場だった。マハティール首相を迎えての国家的事業になると聞けばなお更のことだった。実際には首相出席は実現しなかったが。 公演を成功させるためにはあと数名の日本人演奏家の応援が必要だと主張した。

 しかし、マレーシア側はすんなり「そうですか。じゃ、よろしくお願いします」と言うことにはならなかった。面子や経費負担の問題などもあったのかもしれない。

 ある日、文化芸術観光省、国立劇場ディレクターのスピアット氏がわざわざ事務所を訪ねて来られた。普段は口数が少ない彼が、「ぜひ理解を求めたいことがある」と言うのだ。

 「先進国である日本では、芸術や文化はPRODUCT(完成作品)で勝負します。。しかし、マレーシアではPROCESS(過程)が大切なのです。少しでも立派な演奏会に、と言う日本側の熱意はありがたいのですが、 私たちは実力以上のことを無理をしてやりたくないのです。旗揚げ公演は立派にできても、その後が続かなければ何にもなりません。

 シンガポールはすでに立派なオーケストラを持っています。でも、ほとんどが、お雇い外国人で構成されています。そのようなものを真にシンガポールのオーケストラと呼べるでしょうか。私たちが求めているものはそのようなことではないのです」

 「我々はまだ発展途上にあります。始めから素晴らしいものができるはずがありません。時間をかけて、だんだんに良いものができていけばいいのです。勝負はこの一回の公演だけではありません。

 演奏家も育成しなければなりませんが、同時に観客も育てていかなければなりません。政府に現状を知ってもらって、予算を確保することも必要です。課題は山ほどあるのです」

 「大切なことは、国民に未来に対する希望と夢を与えること、一歩一歩前進していると言う実感と喜びを感じてもらうことなのです。どうか、発展途上にある我々のやり方を理解していただきたい。そして、このことを日本側の音楽家のみなさんによしなに説明してくれませんか」

 マレーシアで4年半国際交流基金の駐在員として文化交流の仕事をした中で、特に印象に残った言葉である。

 ヨハン・シュトラウスやベートーベンの曲の他、マレーシアの音楽や滝廉太郎の「花」も交えての旗揚げ演奏会は成功裏に終わった。”A triumphant orchestra feast”と題するニュー・ストレーツ・タイムズ・の記事は次のように締め括ってあった。

 The orchestra is no doubt “a babe in arms “. But what it did show that night was a promise・・・lot of it.In due time, with constant supprot from members of the public and music lovers everywhere, the National Symphony Orchestra will soon be a mighty musical force.

 あれから、6年の歳月が流れた。計画が何度か延期となった国立劇場がついに完成した。そして、その真新しい施設での初めての演奏会でタクトを振ったのは当時コンサート・マスターだった若いマレー人だった。

 休憩時間にロビーでバッタリ、文化芸術観光省の方々に出会った。1987年に同省が出来て以来、今年5月まで大臣を務めておられたサバルディンチック氏 はじめ、事務次官や担当者など、当時の人たちが皆そろってこの記念すべき公演を自分たちの目で確めに来ていたのだ。

 そして、もちろんスピアット氏も!遠くから 会釈する私に、スピアット氏はわざわざ近寄って来て、優しく手を握りしめ、「よく来てくれたね」と言った。胸がいっぱいになった私は、あの時の言葉を本人が覚えておられるかどうか聞きそびれてしまった。

 第二部はベートーベンの「運命」だった。音楽はずぶの素人だが、その夜はマレーシアであまり聞く機会のないクラシックを満喫した。

 演奏が終わって外に出ると、夜風が心地よかった。私は何度も振り返り、「この建物に命を吹き込むのはこれからですね。スピアットさん、途上の道のりはまだまだ続きますね。」とつぶやきながら劇場を後にした。

 クアラルンプールの夜空には、97年に完成した世界一高いツイン・タワービルがそびえ、96年に出来たクアラルンプール・タワーがダイヤモンドのように輝いていた。未来を信じる国であり続けてほしい、と心から願った。