父が亡くなってから2ヵ月、私は母のそばから離れられなかった。小さい子供が母親を必要とするように、今の母は子の支えを必要としていた。幸い自由が利く身になっていた私は、何度も「マレーシアへ帰る日」を延ばし、2回目の月命日が過ぎてからやっと、それでも後ろ髪を引かれるような思いでクアラルンプールに戻って来た。
 父という「大黒柱」がいなくなって、とても不思議に思ったことは、大切なものを失った寂しさを押しやるが如く、「残された者は助け合って強く生きていかなければならない」という自覚がムクムクと湧いてきたことだ。それは頭で考えた理屈と言うより、本能に近いものだった。「死」は「生」を教えてくれているようでもあった。

 母のために強くなければならない!
 母のために明るくなければならない!
 母のために勤勉でなければならない!

 葬儀が終わった翌日から、私がまず考えたことは家族(母の他、東京在住の弟が一週間残ってくれた)を食べさせることだった。食事に全く関心を失った母に、兎に角、食べてもらわなければならない。私は母の健康を守り、母の心を少しでも癒したいと、いろいろ工夫をして食卓を整えた。普段は一人暮らしの勝手気ままな食生活をしている私とは思えぬその奮闘ぶりは母を驚かせた。「あなたもやれば出来るのね! いいお味よ。」 喜ぶ母を見て、私は「お母さん」になったような気がした。

  買い物、料理、片づけ…と体を動かすことは私自身にとっても、悲しみから逃れるよい方法だった。

 三週間を過ぎたころ、母は漸く台所に戻って来た。私がいることで、意欲が湧いてきたのだろう。母の料理はやっぱり美味しかった。お互いに「孤食」が待ち受けていることを意識した私たちは、今日一日食を共にする家族がいることの有難さを噛み締めて過ごした。

 「家庭料理」は私たちの再起の第一歩だった。

 私は母に言った。「今の日本でおかしな犯罪が多くなったのは、家族で食卓を囲まなくなったからじゃないかしら。おふくろさんの愛のこもった家庭料理を家族でワイワイ言って食べていれば、精神異常は起こりにくいと思うわ」

   夫や子供たちのために料理を大切にしてきた母は「我が意を得たり」と言わんばかりに大きく頷いた。(つづく)