1996年に半年日本でサラリーマン生活をしてマレーシアに戻って来た時の感動が蘇る。元の仕事仲間で運転手のハッサンさんの家を訪ねた時のことだった。丁度長女ヌリアザさんの結婚式の前日で、家はごった返していた。3、40人はいたと思う。目の前でマレー・カンポン(マレーの村落)さながらの光景が展開していた。

 トレパンにTシャツ姿の男たちは外で会場作り。テントを張ったり、折畳みのテーブルや椅子をトラックから降ろして並べたり、大きな鍋やポリバケツを抱えて屋外の簡易調理場に運んだりしている。

 家の中では色とりどりのバジュ・クロン姿(マレーの民族衣装)の女たちが居間を陣取って、新郎新婦が座る雛壇の飾り付けをしたり、引き出物の「ゆで卵」に施す飾りを作ったりしている。台所ヘ行ってみると、ここでも大勢の女たちがしゃがみ込んで、石のすり鉢で唐辛子をつぶしたり、日本の数倍太い胡瓜を刻んだりと、明日の料理の下準備に大童である。小さな子供たちが大人たちの間をぬって、キャーキャー飛び回っている。

 裏庭につながる台所の出口付近には、お米の袋や卵、野菜などが堆く積まれていた。私は度肝を抜かれて、「ハッサンさん、一体どの位準備したの!! ハサン(破産)しないの?」と尋ねた。

 「そうだね… 米は20キロ入りを8袋、卵は千個、鶏は130羽。米は一袋34リンギット、鶏は一羽7リンギット。食べ物関係だけで、ざっと2千数百リンギットってところかな」 いつもの屈託のない笑顔が返ってきた。(この額は彼の給与の2倍にあたる。当時1リンギットは約45円)

 私は久しぶりにこの光景に出会い、懐かしさとわくわくした気分で涙がこぼれそうになった。「これこそマレー社会の原風景!日本では失われた共同体のパワーだなあ。この文化って、素晴らしい!」

 因みにこの村人が共同で作業を行なうことをゴトン・ロヨン(ジャワ語、相互扶助の意)と言い、隣国のインドネシアでも大切にしている価値である。そして、この「大盤(椀飯)振舞い」または「共食」のことを「クンドゥリ」と言う。

 「クンドゥリをする」、「クンドゥリに招かれる」という表現はマレーシアでよく聞く言葉である。結婚式の他、妊娠、誕生、割礼、死などの通過儀礼や断食明け、メッカ巡礼など折々の祝事の時に、こうして「共食儀礼」を行なうのである。喜びや悲しみを「わかち合う」という趣旨なのであろう。

 少し失礼な言い方になるかもしれないが、マレー人たちは、概してあまり味に拘らないような気がする。異常なまでにグルメ志向の現代日本人に比べて、そう思う。まだその余裕がない人が多いということもあるかもしれないが、それだけでもなさそうだ。「食」に対する基本的な見方が少し違うとでも言おうか。「おいしい」とは「お腹が一杯になること」、そして、大切なのは誰と食べるか、誰とわかち合うかということなのかもしれない。

 その彼らは年に1回、1ヵ月にわたって「断食」をする。貧しい人々と「空腹感」を共有するのだ。現代の日本人がお金をかけて際限なくおいしいものを追求しているとしたら、彼らは逆に「空腹」を体験することによって、飢えた人々へのシンパシーを喚起し、食べ物の有難さ、おいしさの原点を再確認していると言える。断食期間中、モスクなどで貧しい人々に、文字どおりの「椀飯振舞い」が行われるのも、「わかち合い」の精神からくるのだろう。

 中国系の人たちはあまり家で「クンドゥリ」をしない。 専ら「外食派」である。屋台を除けば、マレー料理のレストランは極めて少ないが、中華レストランはピンからキリまで、その種類も数も実に豊富である。流石4千年の歴史を持つ民族の食文化、と感じる。どこも盛況で、大家族や友人たちが誘い合って、大きな円卓を囲んで賑やかに食事を楽しんでいる。残念ながらマレー系は宗教上の理由で豚肉を食べられないから、この輪に加わることが出来ない。

 苦労が皺に刻まれ「華僑」の面影を残すアロハ姿のおじいさんや、ズボン・スタイルの中国服を着たおばあさんが娘や孫の手に引かれてやってくる姿を見かけると、マレーシアという若い国の「歴史」を感じると同時に、お年寄りが疎外されることなく、仲間として大切に遇されているこの社会の姿を羨ましく思ってしまう。

 中華料理というものはそもそも大勢で食べるように出来ている。円卓といい、長い箸といい、料理といい…。一人や二人で食べるのはメニュー選びも困るし、第一不経済である。独りぽつんと中華レストランで食べるのは、寿司をフォーク・アンド・ナイフで食べるようなものである。

 「食」は大勢でわかち合って食べてこそ楽しけれ。マレーシアの生活は、そんなアジア的な「豊かさ」というものを教えてくれる。