アフリカの果てに散ったある企業戦士④
満開のジャカランダ
翌日、一日だけ暇をもらって、プレトリアを訪れた。遠縁にあたる畠中篤大使(安芸市出身、現在JICA・国際協力機構副理事長)が迎えの車を出して下さった。
首都プレトリアまで高速道路を使えば僅か30分だが、私達はわざわざ旧道を通ってもらった。
まず、昔住んでいた場所と母校を訪ねた。丘の上にあるWaterkloofという高級住宅地は昔のままの美しさを留め、私達が住んでいた家や通りもすぐに見つけることが出来た。
季節には少し早かったが、その辺りだけは何故かジャカランダが満開だった。ジャカランダは南アメリカ産の街路樹で、丁度日本の桜のような花である。季節になると、一か月くらい町中が淡い紫色に染まり、夢のような美しさとなる。
芝生に落ちた花びらを拾ってよく見ると、つりがね草のような形をしていた。私は桜をこよなく愛する日本人の一人であるが、このジャカランダもまた、美しさと哀しみを秘めた花として一生慈しむことになるだろう。
幻想の桜とジャカランダが入り乱れて、目の前でハラハラと風に散っていった・・・。すべては夢のよう・・・、幻のよう・・・。
120年の歴史を有するキリスト教系の母校も昔のままだった。正門辺りは少し変わっていたが、赤い煉瓦造りの校舎も、つたが絡まるチャペルも30年前の面影をそのまま残していた。水色のワンピースにベージュのセーターやブレザーの制服もそのままだった。
だが、それを着ている女子学生の肌の色は違っていた!白人に混じって、黒人やインド人の顔を見た時、私はアパルトヘイトの終焉を強く実感した。
そして、たとえどんな苦難に直面しようとも、この国もまた「希望」に向かって第一歩を踏み出したのだ、と確信した。
午後はダウンタウンへ行った。治安が悪いので、町をぶらぶらするのは危険だと散々聞かされていたが、新聞記者の武澄は庶民の素顔が見たくてむずむずしていた。
昔総領事館があったチャーチ・スクエアに辿り着くと、「ここならいいでしょう、でも私がお伴します」と、やっとドライバーのお許しが出た。
小1時間、恐る恐る町を歩いた。でも、私達は半信半疑だった。そんなに怖いのだろうか、と。しかし、万が一のことがあって、これ以上会社の方々にご迷惑をかけてはならないと、私達は慎重な態度を取らざるを得なかった。
あるデパートを通り抜けた時、私達の黒人ボディーガイドに向かって、白人の店員が「May I help you?」と声をかけてきた。30年前には信じられないことで、私はこの時にも小さな「希望」を見いだした思いだった。
夕方、幸衛のオフィスに寄った。ゆりの花が飾られた彼の机や周りはよく整理されていた。弟は意外に几帳面だったようだ。
会社の仲間数名が、「伴さんとよく飲んだところを是非お兄さん達に見てもらいたい」とあるホテルのバーに連れて行ってくれた。
そこでもまた、幸衛のことや商社マンの苦労を知ることになった。そして、自分の弟が、両親や兄弟の知らぬところで、いつの間にか大きく成長していることを知ったのだった。 (つづく)
ジャカランダの花びらを拾ってみると、つりがね草の形をしていた。畠中大使夫人(左)に見守られて。