白露(葉月5日)

 長ーい、長ーい夏、終戦79年目の酷暑の夏が終わろうとしている。今日は、はや白露である。

 8月に掲載できればよかったのだが、タンさんのお話に続いて、ジュリアさんのスピーチを再掲しておきたい。当時マレーシアから発信していた私のホームページは結構反響があり、沢山のコメントを頂き、励みとなっていた。

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再掲

おじいさんと広島ーやさしい日本語で語られたある日マ交流史
1999年8月2日

     

 今も8月になると、思い出すスピーチがある。1992年に私が初めて事務方として経験した日本語弁論大会の入賞作品で「おじいさんと広島」と題するものだ。易しい日本語で語られた素朴なものだったが、彼女の豊かな表情ととも今も忘れられない。原稿が手元に残っていたので、本人の了解を得て、以下にご紹介しよう。

 みなさん、こんにちは。私はクアラ・セランゴールから来たジュリア・イスマイルです。今、クアラルンプールのパン・パシフィック・ホテルのけやきと言うレストランで働いています。1990年4月から1991年の2月まで日本の広島女学院高校に1年間留学しました。

 日本に行く1週間前に、私はおじいさんとおばあさんのところへ行きました。

 「おじいさん」
 「なんだ」
 「私は外国へ留学しますよ」
 「そりゃ、いいね。で、どこの国だね」
 「日本です」

 「それはいけない。だめだ。日本は悪い国だ。マレーシア人は戦争の時、日本人にひどい目にあわされた。日本軍は北の方から突然攻めてきた。みんな林の中に隠れて生活した。特に可愛い女の子のいる家は、絶対に見つからないように逃げ回った。それでも彼らは見つけ出して悪いことをした」

 「私の妹はお腹に赤ちゃんがいたから、見つかって殺されないように林の中に隠れていた。すぐそばを日本の兵隊の靴音がして、とても怖かったが、息を殺して隠れていた。私の友達は勇敢だったから、ひとりで刀を持って飛び出して、銃で撃たれて死んだんだ」

 「おじいさん、それは昔の話ですよ」と、父が言うと、

 「若い者に何がわかるか!人生は楽しいことばかりじゃない。辛いこともある。私はあの時のことを忘れない。ほかの孫にも絶対に行かせないぞ!」と言いました。

 マレーシアでは年上の人に口答えをしてはいけないので、私は黙って聞いていました。

 「あれは昔のこと。ジュリア、行って来なさい」と言う父の言葉に励まされて、飛行機に乗りました。

 日本に行く前、私は日本の文化について何も知りませんでした。私が知っていたのは、マレーシアのテレビで見た「おしん」と言うドラマの中の日本人でした。日本の食べ物はおにぎりで、服装は着物でした。今も同じだろうと想像していました。

 ホーム・ステイ先の家で初めて食事をした時、「あれっ、おむすびじゃない!」と思いました。その日は鶏肉のスープやいちごなどいろいろな食べ物がテーブルの上に並んでいました。ちょうど私の18歳の誕生日で、ホスト・ファミリーはプレゼントを用意して私を迎えてくれました。私は嬉しくて、初対面の時から涙を見せてしまいました。

 うちから学校まではバスと汽車で一時間半かかります。朝5時に起きて、帰りは7時すぎです。私はこの通学の時間をとても楽しみにしていました。朝はとてもすがすがしく、夜は家々の灯かりがポツポツと汽車の窓から見えます。何とも言えない気分になるほど、美しいのです。

 4月から広島女学院に通いはじめました。みんなが「平和公園に行ったことある? まだなら、いっしょに行こうか」と、言いました。

 私は、広島に原爆が落ちたことも知りませんでしたから、もちろん平和公園の意味もわかりませんでした。普通の公園だと思いましたから、「いいよ、いつでも行くよ」と答えました。

 5月に初めて原爆資料館、公園と川、そして原爆ドームを見ました。それでも、まだよくわかりませんでした。

 私は海外の人たちに8月6日のことをラジオで伝える国際プロジェクトに参加し、8月6日にまた平和公園に行きました。たくさんのおじいさんやおばあさんが花や折り鶴を持って公園に来ていました。川のそばに立って、ひとりで泣いている人もいました。

 私のところへ一人のおじいさんが来て、

 「どこからきたん」と、尋ねました。

 「マレーシアからです」と言うと、おじいさんは、

 「ごめんなさい」と謝りました。私は何のことだかわかりませんでした。

 夜、灯篭流しを見ているうちに突然たくさんの質問が浮かんできました。

 「私は東京や横浜や北海道ではなくて、どうして広島に来たんだろう。これはどういう意味なのか。この公園で私は何をしたらいいんだろう。ドームの修理や保存にどうしてあんなにたくさんお金が集まるのだろう」

 そして、また突然、答えの手がかりがひらめいたのです。さっき会ったおじいさんは戦争の時、日本がマレーシアにしたことを「ごめんなさい」と言ったんだ。

  私は、灯篭を一つ流しました。その灯篭にはこう書きました。
 「この灯篭はマレーシアに行きます。おじいさん、おばあさん、わかってください。平和公園で私は日本人と一緒にお祈りをしました。私たちの心は一つです」と。

 「2月に私はマレーシアに帰ります。今度はきちんとおじいさんとおばあさんに答えられると思います。今、日本は違います。あれは昔のことです。この写真を見て下さい。広島でもたくさんの人が死にました。赤ちゃんや子供もいます。

 今でも原爆症で死んでいる人もいます。日本人はマレーシア人と同じ気持ちです。私は、他の都市ではなく平和都市広島でホームステイをしたお陰でこのことがわかったような気がします」と心の中でつぶやきました。

 地図をみると、マレーシアと日本はとても近いです。でも、お互いにもっと理解しなければならないことが、まだまだたくさんあります。私は新しい世代のひとりとして、マレーシアと日本の友情のために役立ちたいと思っています。

 私は日本の広島で会った人たちといっしょに学んだことを決して忘れません。どうもありがとうございました。




中央の着物姿の女性がジュリアさん

リンク
🍐 日マ関係を回顧する(2) - おじいさんと広島―拙い日本語で語られたあるマ交流史


「おじいさんと広島―拙い日本語で語られたある日マ交流史」へのコメント

(このコラムはMSNジャーナル、萬晩報にも転載された)

■ 日本語弁論大会でのジュリア・イスマイルさんのお話を読んで、思わず涙ぐんでしまいました。「ごめんなさい」と言えたおじいさんも、それを素直に受け入れたジュリアさんも、どちらもすばらしい。正直に言って私は、戦争で日本がマレーシアにしたことを十分には理解していませんでした。
 日本を愛してくれるジュリアさんのような人に対して恥ずべき事と思います。しっかりと顔を上げてマレーシアの人に会えるようになるために、もっと勉強しなければなりません。(三浦)

■ 今日、MSN News & Journal で「おじいさんと広島―拙い日本語で語られたある日マ交流史」を発見。読みました。涙がこぼれました。(今、会社。勤務中なので、マズイ、マズイ) なんだか心が晴れます。ありがとうございました。(長谷川)

■ 読んでいて、涙がでそうになりました。私は、去年2月までシンガポールに4年間勤務していました。シンガポールでの対日感情は、日本の経済発展を一つのモデルとしてみているため、若い世代のあいだでは表面的には悪くないといえると思います。(政治的には、日本への期待はほとんどありませんが。)
 ただ、日本人が足を踏み入れることができない場所があるとか言う噂もあり(本当にあるか否かは確認していませんが)根底には第二次大戦で日本が行ったことは忘れられてはいません。
 1995年に独立30周年記念の催し物がありましたが、過去の歴史を短くしたマスゲームのなかで、自転車に乗った兵隊がシンガポールに攻め込んでくる場面がありました。明らかに日本の銀輪部隊です。日本人として、戦慄を覚えましたが、持っていた籏は黒一色で日の丸でなかったことに少しほっとしました。このように、かれらの歴史の中にも明確に刻まれていると言うことを深く記憶させられました。
 それに反して、日本の歴史教育はどうなっているのだろうといつも考えさせられます。受験教育の中で、近代史・現代史の重要性が完全に見逃されています。また、歴史教育の目的もあまり明らかではないように思います。(私は45歳ですが、少なくとも私の世代の中等・高等教育ではそうでした。
 つい、いつも考えていることを書いてしまいました。今後も、アジアの状況をお伝え下さい。(小泉)

■ 萬晩報8/4号を読んで、涙が止まりませんでした。(実は、会社のパソコンでみていたもので、昼休みとはいえどうしようかと思ったほどです。)
 日本人として、私は戦争体験はありませんし、以前もっと若い頃は(10代~20代前半)「わたしがやったんじゃないのに、なんでいつまでもわたしたちまでが、戦争中に日本がやったことのとばっちりを受けなくゃいけないの!」と憤りを感じていたこともありました。
 自分の知らないことで、ひとくくりに責任というものをおわされることが苦痛でなりませんでした。今でも、そういう気持ちが全てクリアーになったわけではありません・・・。
 その後、現在は通ってはいませんが、ある宗教にふれて、人間として、日本人として、その家系の人間として、それぞれの立場で、連帯責任というものがあるということを強く感じました。
 わたしのなかで、自分が関わったわけではないけれど、戦前・戦争中を通じて日本という軍国主義の国がどのようなことをしてきたかという罪の意識は常にあります。
 いまでも、当時の傷を持ち続けている人たちに何をしてさしあげたらいのか、私一人がどうこうできることではないんですが、様々な本や映像にふれるたびに思います。ただの一介のOLのわたしにいったい何が出来るのか、と。
 ジュリア・イスマイルさんの感じた広島は、とてもやさしい日本でしたね。ここで、「ごめんなさい」と言ったおじいさんはいつも、苦しかったでしょう。
 戦争で、自分が望んでもいない戦争にかり出されていく男性たち。国に逆らったら、それだけで反逆者として、獄中でたくさんの人々が拷問死させられていった、日本人にとっても、暗黒の時代でしたでしょう。
 前線へ行ったら、命がけの恐怖をあじわい、恐怖からのがれたくて、現地のひとを殺したでしょう。その恐ろしさから逃れたいために、現地の女性を襲ったことでしょう。どちらも受けた傷は深く、誰にも癒せるものではないとしたら、戦争に負けた日本人は、必死で忘れようとしたでしょうし、一方的に攻められた国の人々は、日本人の恐ろしさを子供たちに語り継いできたことでしょう。どちらにとっても、いい事なんてこれっぽっちもない過去でしょう。
 そんなことを考えていた矢先に、この文章が届きました。だから、涙が出ました。とまらない涙でした。すべてではないけれど、わたしもまた癒されました。ジュリアさんに、平和記念公園であった「ごめんなさい」と言ったおじいさんに。これからも、貴重な現地から感じた見た世界をわたしたちに届けて下さい。(神戸)

■ 現在は24歳で、ニューヨークでインターフェイスセンターというところで働いています。ここで私は、宗教間、異文化間の対話を深め世界の平和に少しでも貢献できたらと思って働いています。
 今日は、ニューヨークの仏教寺院でNo More Hirosima というお祈りがあります。現在、7人の日本人の高校生・大学生が夏休みの研修ツアーに来ていて、彼らは今晩千羽鶴をお供えします。時間も広島に原爆が落とされた時間に合わせてこちらの8月5日午後7:15(日本では8月6日午前8:15)に色々な宗教者や一般の人が集まってお祈りします。
 今日はたまたまMSNのページでそちらの記事を拝見いたしまして、とても感銘を受けたのでメールを送らせていただいた次第です。(山添)

■ 「おじいさんと広島」を読ませていただきました。感動致しました。紹介していただいてありがとうございます。私は上海出身の地球人で、今大阪のソフトウェア会社で働いております。上海外国語大学日本語学部卒で、1990年度の「上海市日本語弁論大会」に参加致しました。その後、京都外国語大学に2週間ほど日本研修旅行を招待されました。その時、広島へも行ってきました。また、恩師は現在広島在住で、伴先生と同じように、ただし上海外大で講師され、私たち中国の人に美しい日本語を教えて下さいました。ネットでお会いできて、本当に幸いに思います。(地球人)

■ 思いがけずジュリア・イスマイルさんの消息を知り驚いています。私の娘が広島女学院高校に在学中に留学されていて、日本語スピーチコンテストにきれいな民族衣装を着て出場され、 この「おじいさんと広島」のスピーチに 心打たれたのを覚えています。私はテレビで見せていただきましたが、娘は確か会場に応援に行ったはずです。
 マレーシアの話になると「ジュリアさん今どうしておられるかしら」と懐かしがっておりましたので、早速沖縄で働いている娘に知らせます。