号外 救救トルコ、快快行動!
17日にトルコで起きた大地震の惨事の報道に接し、多くの人が1995年1月17日の阪神大震災を思い出したことと思う。
私も当時クアラルンプールで、このニュースを知り、大きな衝撃を受けた。しかし、今日はその恐ろしさ、悲惨さの話ではなく、あの時、南の国々から日本に対し寄せられた暖かいこころについて、是非みなさんにお伝えしたい。
事件から何日たった日だったかは覚えていないが、あるパーティーで国立美術舘舘長のワイラ女史に会った。
私はいつものように、「How are you?]と在り来たりの挨拶をした。すると、どうだろう、相手からは意外な返事が返ってきたのだ。「落ち込んでいるわ・・」
あまりにも浮かない顔をされていたので、思わず、
「えっ、お体のお具合でも悪いんですか。」と聞き返した。
「そうじゃないの、神戸の地震・・・」
私はそれでもピンと来ず、重ねて聞いた。
「えっ、神戸に誰かお知り合いの方でもいらっしゃるんですか」
「そうじゃないけど、とても悲しいじゃない・・・」
私はあの時ほど自分の愚かさを感じたことはない。阪神の震災に対し、この日本人以上に悲しみと同情を寄せておられたワイラ女史を前に、私はなんと浅はかなことを一度ならず、二度も言ってしまったのだろう。今考えても、冷や汗が出る思いである。
私の驚きはこの一件に留まらなかった。事件から4日後の日付けで教育省傘下の教育管理研究所所長イブラヒム・アフマッド・バジュニッド氏から一通の手紙が、当時私が勤務していた国際交流基金クアラルンプール事務所に届いた。ほかの用件は全くなく、純粋に日本で起きた大惨事に対し、お見舞いの気持ちを伝えるものであった。
1月23日にマレーシア戦略国際問題研究所の会合(同センター日本研究所に対する経団連の助成調印式)があったが、ここでもステファン・レオン所長の呼びかけで200人あまりの出席者が数分間の黙とうを捧げた。
マレーシア人の温かい心と日本への親しみを示すこの出来事は、あれ以来私の心に強く焼き付いている。
今年3月、4月、マレーシアの一部地区で豚を媒介とする日本脳炎が猛威を振るった。その事件について報告した「イスラーム国で起きた日本脳炎と豚騒動」のなかで、私は、「救救猪農、快快行動!」という華字紙の呼びかけが胸を打った、と書いた。新聞は事件の悲惨さを大袈裟に報道したり、当局の不手際を書き立てるのではなく、ひたすら「みんなで救おう!」というキャンペーンを張った。
大口の寄付はその贈呈式の模様が大きな写真で報告され、30リンギット(900円)、50リンギット(1500円)と集まってくる貧者の一灯は、寄付者の名前を紙面に記載する形で報告された。連日、紙面からは、熱いものが伝わってきた。4月18日の南洋商報は一面を割いて、同社に集まった寄付金が300万リンギット(9千万円)を超えたことに対する謝辞を発表し、4月30日のニュー・ストレーツ・タイムズは、マレーシア華人協会に集まった寄付金が900万リンギット(2億7千万円)にのぼったと報告した。
私はこの一件を通じ、この社会に漂う、Caring and Sharing Spirit を改めて強く感じたのだった。
話を阪神大震災に戻そう。大分後になって、ふと目にした記事などで知った事だが、あの時、「温かい心」を示したのは、マレーシアだけではなかった。
フィリピンでは、「震災で苦しむ人たちを助けよう」という活動が次々と始まったという。国軍の救援チームの待機(確か、アルジェリアでもそのような話があったと聞く)、中国系大物実業家による自社のミネラル・ウオター5万本の提供、そして「愛の1ペソ(1ペソは当時4円)募金」等など。
普段私達にあまり馴染みのないチュニジアでも、こころ温まるエピソードがあったという。10トンの地中海マグロの缶詰が被災地に送られる話が持ち上がった時、駐日大使の経験を有する親日派の外務大臣から缶詰よりマグロの刺し身を届けたいとの提案があったそうだ。被災地での冷凍施設の問題などがあったため、この案は実現せず、結局は当初案通り、マグロの缶詰がチュニジアの軍用機で関西空港に運ばれたという。
これらの話を紹介した方々が感じたことは、私も含め、普段は援助する側が、援助を受ける側にまわった驚きと、普段は援助される側にある人々が証明した彼らのこころの豊かさであった。
今、日本はトルコに対し何が出来るだろうか。日本は4年半前の経験を生かして、迅速に対応しているのだろうか。日本の新聞を購読していないので詳しいことはわからないが、今こそ、世界で有数の親日国トルコに対し、そして世界に対し、日本人として「ご恩返し」が出来る時ではないだろうか。
家族で考えていただきたい。