朋あり遠方より来る また楽しからずや

 1月に入って、東京の清水氏より、高知に行く用事があるので会いたいとの連絡があった。清水さんは、国際交流基金時代に北京日本学研究センター事業でお世話になった懐かしい方である。

 北京日本学研究センターは今も続いているが、私が担当したのは設立2年目の1986年からの5年間だった。日中平和友好条約締結後間もなく1980年に北京に日本語教師の研修を目的とする日本語研修センター(通称大平学校)が開設されたが、その後を受けて5年後に北京日本学センターが設立した。「対中国特別事業」と呼ばれ、外務省の外郭団体である国際交流基金と中国教育部により運営された言わば政府間事業であった。

 北京日本学研究センターは当時教師対象の日本語研修コースと日本研究の修士課程を置き、授業はほとんど日本から派遣される専門家によって行われ、大学院のカリキュラムには半年間の訪日研究もあった。派遣専門家の人選、派遣手続き、カリキュラムの調整、学生の招聘、教材や図書の寄贈など、仕事は多岐に亘っていたが、海を越えてのセンター共同運営は決して順風満帆ではなかった。

 そんな折、主に学生の招聘の仕事で国際交流サービス協会の清水さんに大変お世話になった。来日の手続き、住居の確保、学生のアテンドなど、私たちは心を込めて中国の若者のお世話をした。

 当時30代後半だった私は、大袈裟に言えば「青春をかけて」この仕事に打ち込んだ。マレーシアに転勤する時、部長に「伴イズム(Ban-ism)が北京日本学研究センターを支え、見事に花咲かせました」という身に余るお言葉をいただくほどの「のめり込み」ようだった。

 そんな青春時代の同志のような方が高知に来られる!

 実はこれまた奇遇で、高知には北京日本学センターの1期生がいる。高知大学国際連携推進センター副センタ―長の林翠芳教授である。清水さんと何度かメールや電話のやりとりをする中で、彼女のことが話題になり、夕食には林先生にもお声をかけることになった。高知で北京日本学センターのミニ同窓会が実現したのである! 

 市内の居酒屋で再会を喜び合い、30年以上も前の話に花を咲かせた。大平学校も担当された清水さんは、「当時中国から来た日本語教師たちは刺身は全くダメでしたね。今では中国にも沢山の日本料理店があって、隔世の感がありますね」などと話され、「やはり高知のカツオはうまいですね」と舌鼓を打ちながら気持ちよさそうに土佐のお酒を味わっておられた。

 翌日は、宇佐の海へドライブをした。目指すは1週間前に訪れたばかりのVilla Santorini!

 途中青龍寺に寄った。空海が開基した寺である。西安の青龍寺は中国留学のパイオニアとも言える空海が804年より2年間修行を積んだ場所である。日中文化交流の先駆者である空海を拝むことが出来たことに縁を感じた。
 
 その日も天気がよく、桂浜や遠く室戸まで見える美しい海岸線を眺めながらゆっくりコースの昼食をいただいた。目の前は太平洋―気宇壮大な気分になった。

 清水さんは中国以外にも仕事で世界中を訪問した経験があり、アフリカやヨーロッパの新しい国々の話をしてくださった。アフリカのほとんどの国を訪れたという清水さんが「アフリカとヨーロッパは今も植民地と旧宗主国の関係が続いていますね。日本人は真面目だが、国際社会の中でナイーブ過ぎる」、「今、台湾よりウクライナが危ない!」と話されたのが印象深かった。

 宇佐町から桂浜を経て五台山の牧野植物園に寄り、夜の便で帰京された。

 清水さんのご来高は私に、若き日を思い出すキッカケを作ってくれた。日中国交回復後50年の内、5年間を中国との事業にどっぷりつかったことは光栄なことだったと振り返っている。

 


八十八か所霊場第36番札所青龍寺

本堂へと続く長く、急な石段。足の悪い私は登ることができなかった。

リンク:北京日本学研究センター事業 https://www.jpf.go.jp/j/project/intel/study/support/bj/
    国際交際交流基金でのもう一つの印象に残る仕事ー南アジア映画祭
    南国の花たち(2) https://ban-mikiko.com/155.html