今日のコラムはタイトルから大分外れてしまったことをまずお断りしたい。もう若くはない Mikiko の独り言である。

 1981年7月のある夜遅く、スリランカの首都コロンボのあるホテルに一人の若い日本女性がチェックインした。ローラアシュレのブルーのワンピースにオカッパ髪の彼女は疲れと不安の入り混じった表情で何やら受付け嬢と交渉している。

 天井が吹き抜けになっているロービーでは、藤の椅子や南洋の植物に囲まれて、ユーラシアンの女性が静かにピアノを弾いていた。その洗練された優雅な音色が、長旅で疲れた女に微かな笑みをもたらした。「ボンベイの喧燥とは大違いだわ」 彼女は大きく深呼吸した。

 ボーイに案内されて部屋に落ち着くと、彼女はふとベッドの上に一輪の蘭の花が、さりげなく置かれているのに気付いた。添えられたカードには、「ようこそ!」の文字があった。・・・彼女の目から、ポロッと一筋の涙がこぼれた。

「ああ、私はとうとうここまでやって来たのだわ。遥けくもやって来たものねぇ」

 彼女は重い身をベッドの中に深々と沈めた。耳を澄ますと、悠然と、打ち寄せては返すインド洋の波の音が聞こえて来るようだった。その幻覚のような音を聞きながら、彼女はウトウトとし、いつしか深い眠りに入ってしまうのだった。

 この物語の主人公は若き日の Mikiko である。

 三週間半で香港、ジャカルタ、クアラルンプール、シンガポール、カルカッタ、ボンベイ、コロンボ、バンコック、マニラの9都市を女一人で廻るという、今思えば無謀に近い旅だった。目的は国際交流基金アジア映画祭の第1回事前調査である。

 1982年10月に国際交流基金は創立10周年を迎えたのだが、この話はその前年のことである。当時、視聴覚部にいた私は、たまたま出張の順番が回って来て、この大任を仰せつかることになった。若いということは恐ろしいことだ。不安よりも好奇心が勝って、私は嬉々として準備を始めていた。

 4月に川喜多記念映画文化財団の川喜多かしこ女史(故人)や評論家の佐藤忠男氏ら映画関係者に集まっていただき、基金の役員を交えて、第1回準備会議が開かれた。翌年の基金10周年記念にアジア映画祭をやりたいのだが可能なりや、もし可能であれば、どんな形が考えられるだろうか、というかなり初歩段階の討論が自由活発に行なわれた。幸いに参加者全員がその意義を認め、構想の大枠が出来て、事務担当者の私がまず候補9カ国のうち7カ国を下調べに行くことになった。

 香港のカンフー映画とベンガルのサタジット・レイの映画以外、アジア映画がほとんど顧みられることのなかった時代のことである。成功の鍵は如何にして日本人の鑑賞に堪えうる、いい映画を掘り出すかにかかっていた。出発が近づくにつれ、映画は素人の私がどこまでやれるか、心配になってきた。

 登川直樹氏のアドバイスが忘れられない。「第1回目なので、全体的にバラエティーがあった方がいいでしょうね。多彩なアジア、それぞれのお国ぶりが窺えるようなプログラムがいいと思います。題材や風俗で選ぶ方法と芸術性や技術で選ぶ方法がありますが、専門家はどうしても後者で判断するので、あなたはあなたで、自分の目でしっかり見てくればいいのですよ。映画は『素人の目』も大切ですよ。自信を持ってください」

 この「自分の目で」という言葉はこの時ばかりでなく、その後もずっと、文化交流の仕事に携わりながら、常に素人でしかあり得なかった私を勇気づけ、励ましてくれた。

 短期間に効率よく、実りのある調査を行なうにはどうしたらよいか、基金の海外事務所や在外公館に事前に送った調査協力依頼は私なりにかなり考えたものだった。

(1)上映作品候補
 候補作品が上がっている国もわずかにあるが、不十分であり、また映画事情がほとんど分からない国もあるので、現地に赴いて調査する。しかし、時間的制約もあるので事前に在外公館等に候補作品に関する情報収集を依頼し(本件については現地映画関係者や在留邦人にも推薦を求めてもらう)、出張の折に説明を受けることにする。本調査を踏まえて、上映候補作品リスト(1カ国5-10本)を作成することを目標とする。

(2)候補作品の試写方法
 上記候補作品の選考のための試写方法に関し、第2回調査(専門家の派遣を予定)の折に試写の手配が可能かどうか、あるいはビデオを入手して日本国内で試写・選考が可能かどうか調査する。(*当時は今のようにビデオやVCDが普及していなかった。またフィルム・ライブラリーなども整備されていなかった)

(3)映画フィルムの入手方法
 フィルムの購入先はプロダクション、プロデューサー本人、配給会社、公的機関の何れになるか、概算価格、著作権処理、字幕作成(日本で行なう予定だが、作業に必要な台本等の資料が揃うか)及び輸出上の問題点の有無につき調査する。

(4)被招聘者候補
 上映作品の監督を招聘し、講演やセミナーを開催することも検討中だが、使用言語の問題、スケジュールの問題は予想されるか。監督以外にも映画評論家やジャーナリストの招聘は考えられるか等につき意見聴取する。(*この時点では女優の招聘は考えついていなかった)

(5)映画の試写
 既に候補に上がっている作品を中心に可能な限り、現地の映画を見る。

(6)各国の映画事情
 映画産業(特に言語の問題、大衆性と芸術性の問題、映画の社会的役割等)、外国映画の輸入状況、国産映画の輸出、海外での上映状況等につき調査する。

 当時のメモを読み返してもびっくりするような盛り沢山の出張目的を抱えて、乗り込んだのであるが、現地での対応ぶりは天と地ほどの差があった。準備万端で迎えてくれたところでは感謝感激の涙を流し、白紙の状況が待っていたところでは誰も踏み込んだことのないジャングルに分け入るような厳しさを体験した。しかし、私は怯まず、「芋蔓方式」や「当って砕けよ方式」で突き進み、気がついてみたら三週間半の間に約40本の映画を見、十何人もの映画監督に会っていた。

 アジアの熱気と汗と埃にまみれて帰国した私は、まず「アジアには素晴らしい映画があります!映画祭の実現は可能です!」と声を大にして報告し、次のような提案をした。

(1)参加作品は、作品選定にバランスを持たすため、1カ国2本とする。

(2)インドは一国というより、一つの文化圏であり、映画も異なる言語で製作されているので、参加作品を最低3本(ボリウッドとよばれるボンベイのヒンディー映画、ベンガルの芸術映画、そして南インドの映画)とする。

(3)プログラム(案)は 「Asian Film Week - A Panorama of South/Southeast Asian Films」 として、インドネシア、タイ、フィリピン、スリランカより各2本、インドより3本、計11本で構成する(全体像を示すため、実際の映画名を入れてプログラム案を別添)

(4)候補国である中国、韓国、(香港)は東アジア文化圏(漢字文化圏)としてまとめ、別の機会に上映を考える。

(5)マレーシアは多民族国家であり、社会文化事情が複雑なので、今後に期待する。(*この時の印象ではマレーシアが一番パッとしない国だった。そして、なぜか私はP・ラムリーにも出会っていないのです!)

 私の案は、ほぼそのまま採用され、1年余りにわたる基金上げての周到な準備と多くの関係者の方々の協力のお蔭で、「国際交流基金映画祭ー南アジアの名作をもとめて」(通称「南アジア映画祭」)は実現した。1982年10月16日から21日まで会場となった東京・新橋のヤクルト・ホールは連日満員札止めになるほどの盛況ぶりで、ひとつの社会現象として取り上げたマスコミさえあった。参加作品はその後、数年間にわたり日本各地で上映された。

 残念ながら私自身は闘いの途中で体を壊し、オープニング・セレモニーと初日だけを見届けて、病気療養のために郷里に帰ることになった。

 あれから20年の歳月が流れた。しかし、私の思い出の中には今でも、コロンボのホテルで迎えてくれた、あの一輪の蘭の花が大切に仕舞われている。若さのありったけを振り絞って、アジアと四つになって組んだ青春の物語のスチール写真として。