外国に住んでいて、いやな務めのひとつは「イミグレ」(入国管理局)へ行くことである。マレーシアに限ったことではないと思うが、「お役所仕事」の典型のようなところで、長時間待たされたり、難しいことを言われたりするのは、日常茶飯事のことである。

 前回、日本政府関係の特殊法人から派遣されて滞在した折りには、周りの人たちがすべてこの煩雑な手続きをやってくれたので、「査証」は私にとって「空気」のようなものであった。しかし、今回は個人の身分で来ているので、この外国居住のための基本的且つ重要な手続きはすべて自分自身の責任においてやらなければならない。

 今回はマレーシアに来てから、何度イミグレに足を運んだことだろう。その度に、自分はこの厄介な手続きを経て「獲得」する査証によって、限られた期間この地に留まることを許された「よそ者」であることを再認識させられるのである。

 そんなイミグレ通いではあるが、私にはひとつの小さな楽しみがある。近くにロティ・チャナイ(カレー汁につけて食べるインド風パンケーキ)とテェー・タリッ(甘いミルク・ティー)のおいしい店があるのだ。いつも用事が済んだ後、立ち寄ることにしている。

 インド系の人が経営しているその店は、百人近くが座れる大衆食堂だ。ロティ・チャナイのほか、トセー(インド風クレープ)、ムルタバ(お好み焼き)など、インド風各種スナックやミー・ゴレン(焼きそば)、ナシ・ゴレン(チャーハン)など、マレーの代表的な庶民の味が楽しめる。

 そばにダンキン・ドーナッツやケンタッキー・フライド・チッキンの店も次々に出来ているが、その店は相変わらず近くの官庁街のサラリーマンたちでごった返している。ちょうど日本の酒場のような雰囲気なのだが、ここは真昼間、暑さを天井から掻き回す扇風機の下で、男たちはビールではなく、甘ったるい飲み物を片手に喧喧諤諤やっている。マレー系、インド系など、色の黒い人が多いが、肌が白い中国系も時々混じっている。

 ロティ・チャナイは注文してから鉄板の上で焼いてくれるので、アツアツがおいしい。甘さを控えていない濃いミルク・ティーとよく合う。もしかしたらクアラルンプールで一番おいしい店かもしれない、と思っていたら、ある時、見知らぬ人が声をかけてきて、「ここはベストだね」と親指を上に突き上げて、”good!”のポーズをした。

 ところが、この店が不思議なのだ。伝票というものがないのだ。国旗をデザインした帽子をかぶったインド系のウエーターたちは、忙しげにオーダーを取り、料理を運ぶだけで、誰が何を食べたか一向にお構いなし。お客は店を出る時に、自分で食べた物を自己申告して、その代金を払って行く。

 私はこの光景を初めて見た時、「そんなことってあるかしら」と目を疑い、自分もそのようにしながら、なおもレジ係に確認してみるのだった。「ええ、私たちはお客様を信用していますから」と、にっこり笑顔が返ってきた。壁にはアラビア語で書かれたコーランの一節が掛かっている。店主はママッ(インド系イスラーム教徒)なのだろう。

 この店のメニューを見ても、どれも大した値段ではないし、一人が幾皿も食べられるわけではないから、ごまかされたところで、大したことではないかもしれないが、それにしても、開発途上の多民族国家で、このようなことが成り立つということは実に驚きである。いや、もしかしたら、もともと人間社会ってこんな風だったのだろうか。

 「人間信頼」と「大体採算が合えばいい」という、ある意味での「いい加減さ」に基づいた大らかな文化だと思う。私を引きつけた、マレーシア社会が持つ心地よさの一例である。