ハリラヤ・プアサもクリスマスも終わり、マレーシアではそろそろ「お祭り気分」から「日常」へとモード切り替えの時である。

 ところで、今年はハリラヤ・プアサとクリスマスの間に、もう一つの「祭り」が「発掘」された。「冬至節」である。12月21日ブキット・ジャリル国立スタジアムで華人企業家の主催によるマレーシア最大の「冬至節」が開催され、マハティール首相夫妻はじめ、政・財界人、宗教家、一般市民等約1万5千人がつどったというニュースが翌朝各紙の一面を飾った。首相は挨拶で改めて「マレーシア大家族」や「ビジョン2020」について説き、多民族の共存と団結を訴えたという。

 私は、華人の伝統文化が年々より華やかにクローズアップされていることを、率直に喜んだ。華人の友人から、中国正月や仲秋節と並んでこの「冬至節」も大切な祭りで、家族が集まって「湯圓」(汁と共に食べるもち米団子)を食して一家の団結を祝うと聞いていたからである。しかし、このような話はこれまで華人コミュニティーに限られた話題であり、英字新聞の記事になったことは少ないのではないかと思う。大記事になったのは首相が出席し、「スピーチ」をしたからである。これを民族文化への政治の介入として、批判的に見る人もいるかもしれない。しかし、私はこの頃このマレーシア式「宗教」「文化」「政治」の混在を大変興味深く眺めている。

 もう一つの例は、ハリラヤやクリスマスなどの首相のメッセージである。ハリラヤの場合は前夜と当日(再放送)、30分にわたる首相のスピーチが全チャネルで放送される。断食の意義や、平和にハリラヤを迎えられたことに対する神への感謝の言葉に始まり、政治や経済に関する状況説明、そして国民への団結呼びかけなどで終わり、宗教と政治が一体となったスピーチである。

 さて、イスラームスケッチ(13)は「声で結ばれる人たち」を再掲する。


再掲

声で結ばれる人たち

1999年8月12日

―― 去勢されつつある言葉。

 いきなり、このような乱暴な言葉を発することをお許しいただきたい。日本を長く離れて、日本語も疎くなり、自分自身の日本語さえ怪しくなっている者が、「何を言っているんだ」と一笑に付されてしまうかもしれないが、東南アジアに暮らしていて、ここ数年感じることは、日本語が妙に軟弱になったということである。

 世界中の文化や情報が集まり、活字文化も溢れていて、「日本文化」という木は、言の「葉」で豊かに茂っているようなのに、よくよく見ると、その一つひとつの「葉」に生気がない、と思うことがある。

 先日、夜中に放映された「コソボ ―詩の夕べ」という2時間にわたるテレビ番組を見た。詩人、作家、学者、ジャーナリスト、政治家など各界の人々が集まって、コソボ紛争をめぐる詩を朗読した。マレーシア文学の最高峰A.サマッド・サイド氏や、人気ニュースキャスターなども出演して、力を込めて自作の詩を謳い上げた。

 私はまず、その参加者の顔ぶれの多彩さに驚いた。コソボは国際政治専門の学者や評論家だけの独壇場ではないのだ。

 映像はたくさんの写真をも写し出した。ナシッドというイスラームのポピュラー・ソングも流れた。世界で起きている問題の痛みを「分かち合おう」という試みのように思えた。

 残念ながら、私のマレー語は、断片的な理解に留まり、一つひとつの詩が何を訴えているかはわからなかったが、彼らの個性ある声の、そして言葉の力強さに身震いした。大袈裟に言えば、魂を揺さぶられるような思いだった。それは、センチメンタルな評論顔負けのパワー溢れる「啓蒙」だった。

 日本では目という器官による交流が非常に発達している。活字文化は知識の世界、そして、言うなれば、すこぶる知的な世界だ。だが、最近私は口と耳による交流を大切にしている世界があることに気付き始めた。情の世界、心の世界と言ってもよいかもしれない。

 声という媒体を通じて伝達された時の言葉の深さ、重さ、そして豊かさ・・・。

 例えばイスラームの祈り「アッラー・アクバル(アッラーは偉大なり)・・・、アッラーのほかに神なし・・・」この言葉をムスリムの人たちは一日に5回以上自ら唱えたり、聞いたりする。長い人生で彼らは、いったい何千、何万回、この同じ言葉を繰り返すことになるのだろう。

 しかし、それは、一回たりとも「同じ」ではないはずだ。 時には恵みや感謝であり、時には絶望からの救いや哀願であったりする。あるいは、何の変哲もない聞き慣れた言葉にしか過ぎない時もあるだろう。言葉は天の声ともなり、美しい音楽ともなるのだ。

 「マレーシア的マルチ言語社会」の中で、私はマレーシア人はスピーチ好きだと書いたが、政治家は言うに及ばず、それなりの社会的な地位にある人やその夫人は魅力的なスピーチが出来なければならない。紋切り型の挨拶や知識の伝達を主とする日本の講演とは違う。スピーチは、人の心をがっちりとつかみ、人を説得できなければならない。

 発展途上にあるこの多民族国家は、国民が「何度も、何度も同じことを繰り返し聞かされる」世界である。多様過ぎる世界では、ある程度の「洗脳」を行って、「統一」を図って行く必要があるからだ。

 しかし、同じ言葉やスローガンであっても、それは話す人や話される環境によって違った意味合いを持つ。そして、人々は心で聞いて、直感や臭覚で判断する。「こいつの言っていることは、果たしてホンモノかな」と。

 総選挙を間近に控え、今、マレーシアでは与野党問わず「ceramah」(講演会)が花盛りである。スピーチや「ceramah」はマレーシアの大切な文化の一つだ。マレー人の庶民はクラシックの音楽会や現代美術の展覧会に行く代わりに、モスクで金曜日の礼拝をし、説教を聞き、選挙が近づけば、夜は夕涼みがてらに政治・宗教講演会を聞きに行ったりする。

 毎年、盛大な国際コーラン朗誦コンテストも開催され(今年は41回目)、数日間にわたってテレビ中継される。テレビの番組でも政策立案者や実業家自らによる時事解説やディスカッション、宗教(国教であるイスラームに限られるが)講話などが多いように思う。何れも口と耳、そして心や信念の交流である。

 力強く、魅力的な声によって表現される言葉は、ばらばらな個を結びつけ、一つの方向へと向かわせる不思議な力を持っている。マレーシアでは声によって連帯感が育まれていく。

 21世紀は、インターネットの時代でもあるが、同時に声の文化を再評価すべき時代なのかもしれない。