泰日工業大学における「ものづくり」教育

 今年1月、当時勤務していた高知工科大学の仕事で同僚たちとバンコクを訪れた。目的は第2回日本留学&日本企業就職フェアへの参加及びチュラロンコン大学、タマサート大学、泰日工業大学の3大学を訪問し、交流プログラムの打合せを行うことであった。

 タイと日本の名を冠したユニークな大学、泰日工業大学(TNI)は2007年に開学した新しい大学である。大学紹介のパンフレットによれば、「アジア・太平洋の生産拠点になりつつあるタイ国の産業発展のために優秀な技術者、中核産業人材を育成すること」を目的とし、①英語と日本語を全学の学生に課してグローバルに通用するコミュニケーション能力を付与する。②日本の様々な機関との強力なネットワークを有し、特に大学・教育機関との交流では「日本から学ぶ、日本の技術を学ぶ、共同研究をする」ことを目指す。③タイ国の産業界、特に日系企業と連携し、「ヒト・モノ・カネ」の支援を得ることなどを特徴としている。これまで、実践をあまり重視してこなかったタイの高等教育にあって、徹底して「理論」と「実践」を一体化する教育を実施している。

 筆者は2011年から同大学を3回訪れているが、行く度にその発展ぶりに驚かされている。今回は就任間もない安倍首相が同校を訪問した直後の訪問となった。「安倍首相の就任後初めての外遊で、タイにおける最初の訪問先として本学が選ばれたことは光栄です。マスメディアでも大きく取り上げられ、安倍首相は素晴らしい広報をしてくださいました!」とまだ興奮冷めやらぬ様子だった。

 同大学は、タイ日友好とタイ産業界人材育成を目的に1973年にタイの元日本留学生・研修生により創設された泰日経済技術振興協会(TPA)の30年以上にわたる活動の結晶として生まれた。校舎の入り口には日本文字のプレートが掲げられ、校内には「日本的ものづくり精神で時代を切り拓く」のスローガンが掲げられていた。学生3200人、教員130人のうち2割が日本の大学出身で、クリサダ学長は京都大学、バンディト副学長は東京工業大学、パーアノン副学長は東北大学、一ツ橋大学の卒業生である。日本を知り尽くした人々がリーダーシップを取って、「タイにない大学」を目指している。留学生交流が何十年かの後に国と国の関係に影響を与える大事業に結実したこのTNIストーリーは、世紀のサクセス・ストーリーと言えよう。

 因みに同大学には高知工科大学で博士号を取得した卒業生が2名教壇に立っており、彼らが勤務校と母校の交流、またタイと日本の懸け橋となって活躍してくれることが期待されている。

 日本とタイの交流は17世紀の山田長政のアユタヤにおける活躍に始まり、昨年は日タイ修好125周年を迎えた。両国の王族・皇族の交流が深く、仏教国でもあるタイは日本人にはもっとも馴染みやすいアジアの国の一つである。今後両国の絆は若い世代によって益々深まっていくだろう。

東方政策とマレーシア日本国際工科院
 
 昨年2012年は東方政策(ルック・イースト・ポリシー)30周年にあたり、マレーシア、日本の双方で様々な記念行事が実施され、日マ関係の回顧と同政策の検証が行われた。東方政策はマハティール元首相が1982年、首相就任直後に提唱した政策で、「個人の利益よりも集団の利益を優先させて、目覚ましい発展を遂げる日本や韓国から労働倫理や経営手法を学び、マレーシアを豊かな国に発展させよう」というもので、今日まで続いている。

 この30年間に延べ1万5千人のマレーシアの若者が日本に派遣され、高等教育機関で学んだり、産業・ビジネス関係の研修を受けたりしている。また、同政策は一つのスローガンとして、筆者が1990年代にマレーシアに滞在した時はよく耳にした言葉である。

 ルック・イーストの言葉を最初に使ったのはシンガポールのリー・クワンユー元首相だが、タイを除き、かつては欧米の植民地であったASEANの国々の中にあって、歴史的に大きな方向転換を明確に打ち出したマハティール元首相は強い「意思」の人であった。

 このような政策が提唱された背景には、実はマハティール元首相の青年時代の強烈な衝撃があった。1941年12月、当時15歳だったマハティールは、アロースターで英国の軍事拠点シンガポール攻略を目指してマレー半島に上陸した日本軍の姿を目の当たりにした。同氏は「私の履歴書」(1995年、日本経済新聞)の中で「日本の侵略は英国の存在を無意識に前提にしていた私の世界観、価値観をひっくり返し、独立への意識を呼び起こしたのである」と語っている。また、同氏は1961年に家族と日本を訪問し 戦後復興の姿を目の当たりにするとともに、親切な日本人の姿勢を見て深く感銘を受けている。

 さて、時は流れ、マレーシアが1990年代に入って掲げた「2020」(2020年までに先進国の仲間入りをする)も、目前となってきた。30年間続いた東方政策は、2011年に「マレーシア日本国際工科院」(MJIIT)の開校という形で新しい地平線を切り拓いた。構想10年以上、紆余曲折を経て、遂に新しい時代に向けた試みが始まったのである。同工科院はマレーシア工科大学(UTM)のクアラルンプール・キャンパス内にあり、日本からは九州大学、名古屋大学、芝浦工大、立命館大学、東海大学等24大学が連合を組み、教授の派遣等に協力している。「機械精密」「電子コンピューター」「環境グリーン技術」「技術経営」の分野で、「講座制」など日本の工学教育を生かした先端的教育を主に英語で行っている。

 世界経済の牽引力となるアジア諸国が必要とする優秀なエンジニアを育成することを目的とし、マレーシア人や日本人学生のみならず、ASEAN各国からも学生を集め、国際色豊かな大学を目指す。1990年代、多くのマレーシアの青年を東方政策の下で日本に送り出した筆者にとって、隔世の感があり、この試みがマレー系、中国系、インド系などの多民族で構成されるマレーシアの魅力と相まって、やがて大きく開花することを願わずにはいられない。

 形は異なるが、日本の名を冠したこの二つの高等教育機関の設立は、日本とASEAN諸国の縁の深さを示し、その絆が将来に向けて、継承・発展の新しい段階を物語っている。今年は日・ASEAN 友好協力40周年の年にあたり、日本として2015年ASEAN共同体創建に向けての動きにも注目していきたい。

(大妻女子大学国際センター教授) 


タイの大学で教鞭をとる元日本留学生たち