中国正月を数日後に控えた1月20日の土曜日の夜、私はある若い日本女性とクアラルンプールのバングサ地区にいた。時間は9時半過ぎ。 夕食の後、ママッ(インド系ムスリム)の店でテェ・タリッを飲み、彼女のために大通りでタクシーを拾おうとしていたところだった。  突然、おしゃべりしていた彼女が私の横で倒れた。一瞬、何が起きたのか全く理解できなかった。気がつくと、車の流れの中を一台のバイクが 超スピードで突き抜け、見る見るうちに遥か前方の闇の中に消え去って行った。
 立ち上がった彼女は、ショルダーバックを奪われたことを知り、キョトンとした顔で、「どうしましょう・・・、どうしましょう・・・、どうしましょう・・・」とオ ウムのような無感情な声を発している。私の方は逆に、たった3時間前に会ったばかりの新しい友人を我が娘のように抱きしめ、「あなた・・・、あ なた・・・」と半分泣きべそをかいていた。彼女は腕が少し痛いと言ったが、怪我がなかったことは幸いであった。  それからのことはよく覚えていない。気がつくと、私たちは交番にいた。事件の報告を英文で書かされた彼女の横で、私はこれから為すべきこと を箇条書きにし、優先順位を考えていた。

 バックに入っていたもの。パスポート、航空券、現金、カード、宿の鍵、大学の入学手続き書類、カメラ・・・。彼女が書き終えると、目の前のおま わりさんが「これからもう一ヶ所行ってもらわなければならない。警察本部の観光課の人が迎えに来るから、ここで待ちなさい」と言った。まだショッ クが続いていた私たちは押し黙ったまま、言われる通りに命に従った。

 11時過ぎ、3人の婦人警官が白い警察の車で迎えに来た。夜の町は車が多く、賑やかだった。しかし、8年以上も住んだクアラルンプールの美 しい町が、その夜ばかりは「恐ろしい町」に変貌していた。婦人警官たちの他愛無い、陽気なおしゃべりが疎ましかった。  本部では更に待たされた後、1時過ぎに係官の事情聴取を受け、ポリス・レポートの写しももらった。月曜日にそれを持って日本大使館に出頭す るようにとのことだった。

 私は人様のことだから余計に責任を感じ、疲労困憊していて、この若いお嬢さんを連れて真夜中過ぎに「怖い」タクシーに乗る気がしなかった。 友人のハッサンさんに電話をかけ、「こんな夜更けに申し訳ないけど、助けて下さい!」とお願いした。ハッサンさんはすぐに飛んで来てくれた。彼 の笑顔を見た時、なんだかほっとした。

 その夜は身包み剥がされた彼女をそのまま「怪しげな」チャイナ・タウンの安宿に帰すわけにはいかなかった。ハッサンさんの車で一緒に師走の チャイナ・タウンに寄り、宿を引き払い、荷物を拾って我が家にお連れした。恐怖心でコチコチになった体を横たえたのは、3時すぎだった。間もなく 夜明けのアザーンが聞こえる時刻だった。(つづく)