被爆した東南アジアの留学生を想う旅(2)サイド・オマール

オマールさんと上遠野寛子さん
サイド・オマール・ビン・サイド・モハマッド・アルサゴフさんはスルタンの家系で、シンガポールと水道を隔てたジョホールバルの裕福な家に生まれた。第1期の南方特別留学生として1943年に来日し、東京の国際学友会で日本語を学び、翌年に広島高等師範学校、さらには広島文理科大学へと進んだ。眉目秀麗で秀才、辛抱強く、心の優しい人だったそうだ。
「サイド・オマールさんは被爆後負傷者を大八車で運ぶなど懸命に働きました。8月下旬、戦争が終わって東京に戻る途中立ち寄った京都で、オマールさんは急激に体調が悪化し、入院しました。検査をすると白血球が極端に少なくなっていました。担当の医師(注:濱島義博氏)から自らの血を輸血するなど懸命な治療を行いましたが、9月3日、オマールさんは亡くなりました」(注:享年19歳)(企画展「被爆した東南アジアの留学生」パンフレットより)
オマールさんは今京都圓光寺に眠っており、毎年命日前後に法要が営まれている。
今回の広島訪問で最も心を動かされたのはオマールさんが東京の本郷寮の職員だった上遠野寛子さんに宛てた手紙の実物に出会ったことだ。
感動のあまり、オマールさんの手紙を一心不乱で書き写した。一字一句が愛おしく、写経のような気持ちで一字一字心をこめてノートに記した。(間違いがあったらごめんなさい、オマールさん!)
このような長い手紙が書けたオマールさんの日本語能力の素晴らしさには驚きを禁じ得ないが、情感豊かな文章からは当時の広島の風景や戦時中の生活、オマールさんの偽らざる心境が読み取れる。涙しながら、作業をしたことだった。合掌。
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大變永らく御無沙汰致しました。
お姉様と別れてからもう約一か月半くらいになりましたが、一度もおたよりを差し上げず、深くお詫び申し上げます、其の後お姉様にはお變りはありませんか。私は相變ず元氣で愉快に勉強して居りますから、どうか御安心下さい。
待ちこがれの夏が近づいて参りました。毎日朝も晩も気持ちのよい冷たい水で體を浴びる事も出来る様になりました。あのつらいいやな冬はもう去ってしまいました。此度は待ちこがれの暖い春が訪れて参りました。此の様な氣候がいつまでも續くといいですね。
廣島の町のまわりにはきれいな山や河が澤山あって、とてもすてきな所です。遠足やハイキングに行く所も澤山あります。此の間日本の学生達と一っしょに廣島の郊外にある「ひのやま」登山を致しました。空は晴れて暖い春の太陽が明るく輝いて居て大変すばらしい天氣でした。山の林を通った時には春の鳥の鳴き聲や虫が蠢いて居る聲を聞いて、マライの故郷の事を思ひ出して非常に懐かしく感じました。山の頂上で日本の学生達とかはりがはり自分の故郷の歌を歌ったり、話をしたりして随分愉快に遊びました。
學校では先生方は皆親切に教へて下さいます。そして勉強する學科も色々澤山あって、とても面白くて決していやにはなりません。私達は教練や銃剣術などをして大いに體を鍛へて日本の學生達に少しも負けない様に一生懸命やるつもりです。
廣島ではお姉様のようなよく私達の世話をして下さる人は一人も居ません。本郷寮で送った様な楽な生活は廣島では決して出来る物ではありません。いつもシャツのボタンが外れた私は其れを直して下さる人がいなくて大変困って居ります。本郷寮でお姉様にいろいろ着物の修繕をして貰ったり、ボタンを附けて貰ったりした時の事がありありと思ひ出されて来ます。本郷寮では病氣などの時にもお姉様がいつも心配して下さって私達を慰めたりお薬を持って下さったりして自分の本當の姉の様でした。
そして今廣島では私の友人アブドラ君もマンスール君も居ない。唯私一人だけで淋しくて淋しくてたまりません。本郷でアブドル君と一しょに送った生活は最も愉快な生活でした。私にはアブドラ君の様な友達が一人しか居ません。いい友達は容易に出来る物ではありません。今アブドラ君から遠く離れた私の淋しさをお姉様もよく察して下さるでせう。
しかし、私達は日本に勉強に来たのですから、この様な事ばかり考へてはいけません。もっともっと元氣を出して、うんと我慢しなければなりませんね。この廣島の高等師範学校にて四年間ばかり我慢して前よりなお一層努力して、南方の本當の有力なる指導者になって、新しいマライ、ひいては東洋平和の為に盡して、強く正しく明るくさしのぼる朝日の如く邁進したいと思ひます。
この立派な仕事をやり遂げる為に来たのですから自分の事ばかり考ヘずに、先づこの大きな仕事を完遂することが出来る様に勉強しなければなりませんね。ですから、私は淋しい事などは出来る限り忘れて、勉強だけの事を考へなければ決して成功ができないと思ひます。
さて、こんなに澤山書きましたが、まだこちらのニュースを少しも申し上げなかった。御免なさい。皆は元氣ですが、サガラ君は「オーダン」と言ふ病氣にかかって、今寝て居ります。食欲が全然なくて何も食べたくない様です。いくらすすめてもやはり食べたがりません。しかしお医者さんによれば大した病氣ではなくてじきに〇れるさうです。ご安心ください。
此度の日曜日には「待ちどうし」の新しい寮への移轉ですから皆は喜んで居ります。尚志会館は非常に狭くて大変苦しかったが、此度の寮はよさそうです。
廣島の御飯は大変少ないが其のかはりにお菜が澤山あります。果物も割合に多いです。私達には特別配給がまだある様です。教室も御飯も寮もなんでも皆特別です。私達は廣島に十分になれるまでは特別の扱いで先生方がたがして下さるそうですから、皆安心して居ります。
九州の友達から殆ど毎日手紙を貰っております。手紙はやはり私達の一つの樂しみです。
さあ、あまり長くなるといけませんから、今日はこれだけに致しませう。日本語はまだまだ下手なので間違ひだらけの手紙を差し上げました。 お母様にによろしくお傳へください。
さて、お約束のお寫眞は如何ですか。では、この手紙のお返事を樂にして待っております。
ごきげんよう。
親愛なるお姉様へ
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🌙ショーケースの中のオマールさんの手紙(4枚)、かすれていて読みづらかった

🌙これは大切な文書!と必死で書き写した

🌙妹のアザーと。何とハンサムな青年!

🌙京都の小学生たちがオマールさんを訪ねた記録
実は、私はマレーシアでオマールさんの義兄ウンク・アジズ氏と交流があった。アジズとオマールは子供の頃から兄弟のように仲が良く、アジズは後にオマールの妹シャリファ・アザーと結婚する。アジズも徳川奨学生として日本に留学しており、二人は日本でも会っていた。先に帰国するアジズに「帰ることはないのに。広島で勉強すればいい。安全だから」と言っていたそうだ。それが二人の最後の別れとなった。1945年の春のことである。
りンク:🌙 マレーシアの親日家②ウンク・アジズ元マラヤ大学学長

🌙前列左からウンク・アジズ氏、石井米雄氏、オマールの実妹アザー夫人(マレー文化研究の第一人者)
参考:
1.早川幸生編「オマールさんを訪ねる旅ー広島にいたマレーシアの王子様
かもがわ出版、1994)
2.藤原聡他「アジア戦時留学生ー トージョーが招いた若者たちの半世紀」
(共同通信社、1996)
3.上遠野寛子「東南アジアの弟たち―素顔の南方特別留学生」
(暁印書館、2002)
4.みんなの中で生きているオマールさん 伴武澄 https://yorozubp.com/wp/2024/01/18/omar/




